は「ビク」]ともしない。罐《かん》前の火夫や石炭庫のコロッパスは、デッキまで孑孑《ぼうふら》のように、その頭を上げに来た。
オイルマンは機関室からのぞいた。
サロンでは、交渉が開始された。もっとも、船長は、一撃の下《もと》にやっつけるはずであって、交渉などをする気はテンデなかったのだ。ところが、どうしたはずみかいつのまにか、交渉の状態にはいった――のであった。
四四
「これは、だれが、書いたんだ! これは! この要求書は?」船長は、その一声をこの文句によって切って離した。
「私が、書きました」舵手《だしゅ》の小倉が答えた。
「お前が?」船長は、その回転|椅子《いす》から、無意識に腰を浮かしたほど驚いた。小倉は、コーターマスターの中で、彼の一番愛していた従順な青年であり、頭脳もよく仕事もできる、その上|風采《ふうさい》のいい、サッパリした男だった。
「だれかが、お前に、それを書かしたんだろう。お前が自分で、こんなものを書くと言うわけがない、だれだ、この文章を作ったのは」彼はストキをにらんだ。
「私が、作ったのです」ストキが今度は答えた。
「そうだろう。お前だと思った。大体貴様は、横着だからな。貴様が、小倉や皆をおだててこんなものを出さしたんだろう」彼は裁判官のごとくに訊問《じんもん》した。
「そんなことは、きわめて枝葉の問題と思います。私たちは、食うために船乗りになっているのです。であるのに、船の仕事のために負傷しても、手当をしてもらえないということになれば、私たちは、命をすててかかったも同然です。もっとも、船では命をすててかかってることは、当然だといえば当然ですがね。しかし、ただ、私たちだけが、命を安売りするということは、私たちにも、承知ができないことです」
藤原は、最初の探照弾を打《ぶ》っ放した。
「それじゃ、勝手に下船して行ったらどうだったい。だれが、いつお前に、どうぞ、下船しないで乗ってくださいと頼んだ! 頼んだのはどっちだったか、よく考えて見ろ」
船長が言った。
「私たちは、どこへ行っても、いいところはないのです。だから、自分の『今』の生活を、よりよくする方法をとるよりほかはないのです。この船ばかりへ日が照らないと言って、下船したところで、他の船でも、陸でも同じことです。だから、自分の今いるところで、より良い条件の下《
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