非常に大きな、――それは他のどこの港でも見られない――人間の頭ほどの太さの、整頓《せいとん》した、等辺三角形の、握り飯を一つずつ、親方から受け取って、船室へ持って来ては食っていた。
それはセーラー中での食い頭《がしら》三上でさえも、一つはとても食べられなかった。それにはごま塩以外何にもおかずはついていないのであった。人足は夕食にその握り飯を一つもらうと、明け方までは、義務として、残業労働を、再びその窖《あな》の中で、「あの世」の人のごとくに続けねばならないのであった。
石炭の運賃は、そのころ一トンについて室浜間が五円であった。従って、石炭は水夫室にまで積み込まれた。水夫の月給は八円ないし十六円であり、仲仕、人足らは八十銭の日賃銀をもらっていた。そしてその途方もない握り飯に釣られると、一円三十銭だけ、一昼夜でもらえるのであった! そして石炭の運賃はトン五円であった!
ありとあらゆるすき間は石炭をもって填充《てんじゅう》された、保険マークはいつも波が洗って、見えなかった。そして、糧食は、かっきり予定航海日数だけが、積み込まれていた。
船主や株主らにとっては、黄金時代であった。水夫たちや、労働者たちにとっても過度労働の黄金時代であった。
たとえば、汽船はゼンマイ仕掛けのおもちゃのそれのようだった。ゼンマイのきいている間は、キチキチとすこしも休むことなく動いた、従って、水夫たちも船長にしても、同じようなことであった。船長はややそのために水火夫へ対して当たったのかもしれない、迷惑な話だ!
人足たちは、桟橋から轟音《ごうおん》と共に落ちて来る石炭の雪崩《なだれ》の下で、その賃銀のためにではなく、その雪崩から自分を救うために一心に、血眼《ちまなこ》になって働いた。そして、そのために彼らの労働は一か月に二十日以上は、どんないい体格の者にも続けられないのであった。そして、彼らは粉炭を呼吸するのだ。
しかし、よかった。一切がわからなかった。一切が知られなかった。馬車馬のように暗雲《やみくも》にかせぐのはいいことなのであった。そして、資本主にとってもこの事はこの上もなくよいことであったのだ。そして、そのころは欧州戦争が行なわれていたのだ。
その時であった! わが日本帝国の富《とみ》が世界列強と互角するようになったのは!
その時であった! 日本が富んだのは。その時であった
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