に乗ってるとこういうものは、とても食べられないね」などといって、彼は「鹿《か》の子《こ》」の小豆《あずき》を歯でかみとったりしていた。
 「全く、この家の菓子はうまいよ。横浜にだって、たんとありゃしないよ」波田は通がった。
 「菓子の鑑別にかけちゃ、波田君は、ブルジョア的の嗜好《しこう》を持ってるからなあ」藤原は笑った。
 三人は、胸の焼けるほど菓子を食った。その間に、疲労も回復された。そして、しばらくは、船のことや、一切のいやなことを、忘れてることもあった。が、藤原の心は、ストライクが、いつ起こさるべきであるかが、ほとんど、忘れられなかった。
 彼は、菓子を食いながら――「万人が、パンを獲るまでは、だれもが、菓子を持ってはならぬ」というモットーを思っていた。この言葉、このモットーは、どのくらい、藤原を教育したことであろう。この簡単でわかりのいいモットーは、全世界の、労働者たちの間に、どんなに、親しい響きをもって、口から口へ、村から街《まち》へと、またたく間に、広がって行くことだろう。そして、この言葉は「アーメン」を口にする人の数を、今でははるかに、抜いているのだ。そこには、新しい感激に燃える真理が、炬火《たいまつ》のごとくに、輝《ひか》っているのだ。――
 藤原は、勘定を払った。「済まないなあ、僕が、おれいにおごるつもりだったのに」とボーイ長は、藤原に負《おぶ》さりながら、真から恐縮して言った。
 ボーイ長のまっ白の繃帯《ほうたい》は、それでも血がにじんで来た。「膿《うみ》が出るよりはいいね」と、ボーイ長は笑う元気が出た。
 しかし、本船に帰り着いた時は、彼らは、グッタリくたびれていた。ボーイ長は、そのひきずった足のために、再びその神経は、かき荒らされてしまった。それは、美しい夢から目ざめた、牢獄《ろうごく》内の囚人の心に似ていた。
 一切は、また狭い、低い、騒々しい、不潔な、暗い、船室の生活へ帰った!

     三八

 万寿丸は、横浜へ帰ると、そのまま正月になるのであった。従って、船体は化粧をしなければならなかった。船側は、すでに塗られた。次はマストが、塗られねばならない。
 マストのシャボンふき、ペン塗り、――この仕事は、夏はよかったが、正月の準備などは、冬に決まっていたので、困難であった。シャボン水は凍ってヨーグルト見たいになるし、ブラシが凍るし、全く、
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