だけの金を持っていたならば、チーフメーツへなんぞ、再び交渉に行くわけがなかった。その結果は、あまりに彼にはハッキリ見え透いている。けれども、彼がもし、ボーイ長を自分の費用で連れて行き得ない限りは、彼はありとあらゆる手段を試みる必要があったのである、[#「、」は筑摩版では「。」]そして、それは、また、彼を救うと同時に、ボーイ長を絶望から、しばらくでも引き止めて置くところの、唯一の残された方法なのであった。
「チーフメーツの方もどうなるかわからないから、もし、それがだめだったら、おもてで出し合うってことにしよう。そうすることは、まるで船主にロハでくれてやるようなもんだが、この際仕方が、ほかにあるまい。そして大丈夫チーフもだめだと思うんだ。船長の許さないものをおれが、というに相場はきまってるんだ。だから、一人《ひとり》頭二円ずつぐらい金を集めて置いてくれないか、それはボースンに頼もう。今持ち合わせのない者は、ボースンに立て替えて置いてもらうこと。ということにしていたらいいだろう。ね、僕は、チーフのところへ行って来るから、頼みますよ」
彼は出て行った。波田は、彼が出て行ってしばらくすると、ボースンに、五円貸してくれと頼んだ。そして二円をボーイ長へ割《さ》いて、三円をふところへしまい込んだ。そして、彼は、デッキを通って、チーフメーツの室の付近へ行って、藤原の交渉を聞こうと試みた。しかし、チーフメーツの室は固く扉《とびら》に錠がおろされて、人の気配《けはい》がしなかった。彼はサロンデッキを一回りした。けれども何事も、そこでは起こってはいなかったし、また、だれもそこにはいなかった。
波田は――それでは、藤原君はどこへ行ったんだ?――と思いながら、おもてへ帰って来た。
藤原はもう帰って来て、水夫たちに、チーフメーツは、船長よりも先にサンパンで、海から上陸したあとだったことを報告したところであった。
そこで、ボーイ長はどうしよう、という相談が水夫らと、四人の舵取《かじと》りの間に行なわれた。
三二
相談の結果、病院が夜では都合が悪くはないかという動議のあったため、なるほど、それは昼の方がいいだろう。では明日《あす》午前中に、行くことにして、ついでといっては済まないが、この事件の最初からの関係者として藤原君と、波田君とに、病院までついて行って、もらおうと言うこ
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