が、また引きかえして、堀川《ほりかわ》へはいった。彼は神奈川沖へ出た時に、伝馬にペンキで書かれてあった万寿丸を、シーナイフで削り取ってしまった。
彼は、翁町《おきなまち》の、彼が泊まりつけのボーレンの、サンパンのつながれる場所へ、その伝馬をつないだ。そして、小林という、そのボーレンへ、のこのこ上がって行った。
ボーレンのおやじは、笊《ざる》のような彼の唯一の財産なるサンパンに、チャンス取りに泊まってる宿料なしの水夫を船頭にして、沖へとチャンスを取りに出かけた留守であった。
おばさんはいた。下手《へた》な田舎芝居《いなかしばい》の女形《おやま》を思わせる色の黒い、やせたヒョロヒョロの、南瓜《とうなす》のしなびた花のような、女郎上がりのおばさんだった。一口にいえば「サンマ」のおばさんだった。このおばさんはいた。
このおばさんはおやじのおかみさんではなかった。おやじの世話で船に乗って、今外国船に乗って、ここ四年ほど前ハンブルグから、近いうちに帰るという手紙と、金二百円とを送ってよこした水夫の、おかみさんだった。
そのおかみさんが、今帰るか、今帰るかと待ってるうちに、二百円と一年とが消えてなくなってしまった。そこで、三年ばかり前から、やもめの、ここのおやじのところへ、飯たきに来て、亭主の帰るのを「網を張って」待ってるのであった。
「まあ、三上さんだったわね。どうしたの、いついらしったの?」
三上が、のっそりはいったのを見たおばさんは、長火鉢《ながひばち》の前に吸いかけの長煙管《ながぎせる》を置いて、くるりと入り口の方を振りかえって、そういった。
「おやじはチャンス取りか」三上はブッキラ棒にきいた。
「ええ、相変わらず、急いでるの? それともゆっくりできて?」とおばさんはきいた。
「急がねえよ、上がらしてもらおう」といって、彼はもうそこへ上がってるんだったが、長火鉢の前の座ぶとんの上へ「上がらしてもらって」おばさんの長煙管で、スパスパと煙草《たばこ》を吸い始めた。
「随分ごぶさたね、三上さん。あっちにはこんなにごぶさたしやしないでしょうね。おこられるからね」
「真金町《まがねちょう》? 毎航海さ、おやじはおそくなるだろうね。今幾人いる」
「十一人、暮れに迫って、口はないし、はいるところはないし、おやじさん、困っててよ」と指で丸をこしらえて見せた。十一
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