あったのね、私、私、私だって、私はね、小倉さん。あんたが高等海員の試験を受けて、船長に立身するように、試験を受けてでも、願ってでもなく、この商売に、むりやりにほうり込まれたんだわ。私のいうことがわかって、ホホホホホホ。私のいうことはね、こんな商売してても、それは私の知ったことじゃないってつもりなのよ。あなたが船乗りをしてるのも、私がこんな汚らわしいことをしてるのも、性質は同じなのよ。そしてね。私の方が、ほんとうは、もっと尊敬してもらわなければならないほど苦痛な部分を引き受けてるのよ。わかって? 人間が生きるためには、どんな苦痛でも忍ぶもんだわ。生きるためには、より早く死ぬ方法までに、飛びつくものよ。
 私なんぞ死ぬまでに、ほんとに自分のしたいと思ったことの、反対のことばかしさせられてとうとう死んじゃうんだ。自分の思う通りになることは一つだってありゃしないんだわ。私はね初めはね、あんたをただのお客と思ったの、そして次には坊っちゃんと思ったの、その次はほんとに物のわかったおとなしい人だと思ったの、そしてね、今ではね、あなたは、そうね、何だろう、何といえばいいだろう、私のおとうさんだわ。私を産んだ、私の知らない、ほんとの私のおとうさんだわ、ホホホホホホ……私おとうさんに……」

     二一

 その夜は全く悪魔につかれた夜であった。人間の神経を鏝《こて》で焼くように重苦しい、悩ましい、魅惑的な夜であった。極度の歓《よろこ》びと、限りなき苦しみとの、どろどろに溶け合ったような一夜であった。
 三上にも、小倉にも、それは回視するに忍びないような、各《おのおの》の思い出を、その夜は焼きつけた。それは永劫《えいごう》にさめることのないほどの夜であるべきであると思われた。それほどその夜は二人《ふたり》にとって大きな夜であった。
 人間の一生のうちに、その人の一切の事情を、一撃の下《もと》に転倒させるような重大な事件があり、社会においては、全社会を聳動《しょうどう》せしめるような大事件がある。そして、それらの事件が必ず夜か昼かに行なわれ、その事件とはまるで関係なしに、夜になったり、朝になったりすることは、個人として、社会として、その事件に当面したものに、ばかげた、不思議な感じをきっと起こさせるものだ。中には「ああ、おれにとって、あれほど重大なことがあったのに、どうだろう、夜が明け
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