ら力が抜け出したように感じたので、しゃがんだ。
「あまりひどいことをしないでね」と女はものを言った。その声は力なく、途切《とぎ》れ途切れではあったが、臨終の声と云うほどでもなかった。彼女の眼は「何でもいいからそうっとしといて頂戴《ちょうだい》ね」と言ってるようだった。
 私は義憤を感じた。こんな状態の女を搾取材料にしている三人の蛞蝓《なめくじ》共を、「叩《たた》き壊してやろう」と決心した。
「誰かがひどくしたのかね。誰かに苛《いじ》められたの」私は入口の方をチョッと見やりながら訊《き》いた。
 もう戸外はすっかり真っ暗になってしまった。此だだっ広い押しつぶしたような室《へや》は、いぶったランプのホヤのようだった。
「いつ頃から君はここで、こんな風にしているの」私は努《つと》めて、平然としようと骨折りながら訊《き》いた。彼女は今私が足下の方に踞《うずくま》ったので、私の方を見ることを止めて上の方に眼を向けていた。
 私は、私の眼の行方《ゆくえ》を彼女に見られることを非常に怖《おそ》れた。私は実際、正直な所其時、英雄的な、人道的な、一人の禁欲的な青年であった。全く身も心もそれに相違なかった。だから、私は彼女に、私が全《まる》で焼けつくような眼で彼女の××を見ていると云うことを、知られたくなかったのだ。眼だけを何故《なぜ》私は征服することが出来なかっただろうか。
 若《も》し彼女が私の眼を見ようものなら、「この人もやっぱり外の男と同じだわ」と思うに違いないだろう。そうすれば、今の私のヒロイックな、人道的な行為と理性とは、一度に脆《もろ》く切って落されるだろう、私は恐れた。恥じた。
 ――俺はこの女に対して性慾的などんな些細《ささい》な興奮だって惹《ひ》き起されていないんだ。そんな事を考える丈《だ》けでも間違ってるんだ。それは見てる。見てるには見てるが、それが何だ。――私は自分で自分に言い訳をしていた。
 彼女が女性である以上、私が衝動を受けることは勿論《もちろん》あり得る。だが、それはこんな場合であってはならない。この女は骨と皮だけになっている。そして永久に休息しようとしている。この哀れな私の同胞に対して、今まで此室に入って来た者共が、どんな残忍なことをしたか、どんな陋劣《ろうれつ》な恥ずべき行《おこない》をしたか、それを聞こうとした。そしてそれ等の振舞が呪《のろ》わるべきであることを語って、私は自分の善良なる性質を示して彼女に誇りたかった。
 彼女はやがて小さな声で答えた。
「私から何か種々《いろいろ》の事が聞きたいの? 私は今話すのが苦しいんだけれど、もしあんたが外の事をしないのなら、少し位話して上げてもいいわ」
 私は真赤になった。畜生! 奴は根こそぎ俺を見抜いてしまやがった。再び私の体中を熱い戦慄《せんりつ》が駈け抜けた。
 彼女に話させて私は一体どんなことを知りたかったんだろう。もう分り切ってるじゃないか、それによし分らないことがあったにした所で、苦しく喘《あえ》ぐ彼女の声を聞いて、それでどうなると云うんだ。
 だが、私は彼女を救い出そうと決心した。
 然し救うと云うことが、出来るだろうか? 人を救うためには(四字不明)が唯一の手段じゃないか、自分の力で捧げ切れない重い物を持ち上げて、再び落した時はそれが愈々《いよいよ》壊れることになるのではないか。
 だが、何でもかでも、私は遂々《とうとう》女から、十言|許《ばか》り聞くような運命になった。

    四

 先刻《さっき》私を案内して来た男が入口の処へ静《しずか》に、影のように現れた。そして手真似で、もう時間だぜ、と云った。
 私は慌《あわ》てた。男が私の話を聞くことの出来る距離へ近づいたら、もう私は彼女の運命に少しでも役に立つような働が出来なくなるであろう。
「僕は君の頼みはどんなことでも為《し》よう。君の今一番して欲しいことは何だい」と私は訊《き》いた。
「私の頼みたいことわね。このままそうっとしといて呉れることだけよ。その他のことは何にも欲しくはないの」
 悲劇の主人公は、私の予想を裏切った。
 私はたとえば、彼女が三人のごろつきの手から遁《に》げられるように、であるとか、又はすぐ警察へ、とでも云うだろうと期待していた。そしてそれが彼女の望み少い生命にとっての最後の試みであるだろうと思っていた。一筋の藁《わら》だと思っていた。
 可哀想に此女は不幸の重荷でへしつぶされてしまったんだ。もう希望を持つことさえも怖しくなったんだろう。と私は思った。
 世の中の総《すべ》てを呪《のろ》ってるんだ。皆で寄ってたかって彼女を今日の深淵《しんえん》に追い込んでしまったんだ。だから僕にも信頼しないんだ。こんな絶望があるだろうか。
「だけど、このまま、そんな事をしていれば、君の命は
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