はどうなったか、泉原はすこしも知らなかったが、彼が彼女を忘れ得ないように、女も何彼《なにか》につけ、泉原を忘れ得ないであろう。それ程二人には深い様々な記憶があった。
 泉原は四辺《あたり》が全く暗くなる迄《まで》気がつかずに共同椅子に腰をかけていたが、フト我に返って立上った。彼はいつの間にか点《とも》された蒼白い街燈の下を過ぎて、低い空を赤く染出している賑かな町の方へ歩《あるき》出した。
 兵舎の傍《わき》から斜に大通りをはいってゆくと、じきにV停車場《ステーション》へ出た。下宿へ帰るには稍《やや》迂回《うかい》であったが、停車場《ステーション》の構内をぬけて電車道へ出るところに、伊太利《イタリー》人の経営している安い喫茶店がある。そこで晩飯代りに一寸《ちょっと》したものを口に入れてから帰ろうと思ったのである。
 V停車場は乗降客でゴッタ返していた。酒場《バー》の前を過ぎて、時間表の掲《かか》げてある大時計のわきを通りかゝった時、泉原は群集の中に何ものかを見つけたと見えて、呻くような低い叫をあげてハタと足を停《とど》めた。彼はそれでも自分の目を疑うように、二三歩改札口へ馳《はし》り寄っ
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