つけた五階建、六階建の宏荘な旅館《ホテル》が、整然として大通りのペーブメントに沿ってすっくりと立並んでいる。美しい服装《なり》をした婦人達の姿がチラ/\と見えていた。
「Q旅館か、二年前に始めて英国へきたその時の夏には、この旅館に宿泊《とま》った事がある…があとにも先にも、それが一ぺんきりに違いない。」と泉原は呟《つぶや》いて、ふと着古し膝の丸く出た服のズボンを見下したが、過去《すぎさ》った記憶から遁《のが》れるように、足早にそこを立去った。海岸通りには涼しい風が街樹の緑をサラ/\と鳴している。音楽堂では賑かなコンサートをやっていた。泉原はそこまで歩いていったが、汽車の着いた時間からいっても、グヰンの一行が海岸にいる筈《はず》はないと思ってもとの道へ引返した。夕方|倫敦《ロンドン》のV停車場で、グヰンを見かけて、こんなところまであとを追ってきたが、女は果して尋《たず》ねるグヰンに違いなかったろうか、と彼はいま幾分か不確な心持になっていた。仮令《よし》それがグヰンであったとしたところが、彼女は自分をすてゝ逃げたのではないか。貯金帳をもって走ったという事も、自分から告訴する考えもなく、また彼女に賠償させようという気もない以上、彼女の後を追うべき必要は更にない訳である。泉原はそう思って、我ながら斯《そ》うして女のあとを追ってきた愚かしさをはがゆく思った。
一時に昼食をとって以来、何も口へ入れなかった泉原は頻《しき》りに空腹を覚えてきたので、本通りの裏手へ入って、入りいゝ飯屋《めしや》をさがそうと思った。彼は小さな商店の立並んだ裏町を曲りくねって、海岸へ通ずる道路幅の広い大通りへ出た。そして間をおいて青白い瓦斯燈《ガスとう》の点《とも》っている右側の敷石の上を歩いてゆくと、突然前方の暗闇から自動車が疾走《はし》ってきて、彼の横を通り過ぎた。彼はびっくりして目をあげた瞬間、彼は確かに車内にいた三人の姿を認めたのである。それはいう迄もなく、V停車場で見かけた一行で、五十恰好の婦人を真中に、モーニング姿の男と、グヰンが腰をかけていた。グヰンは泉原の立っている方に近い、向って右手の席に就《つ》いていた。自動車はまたゝくうちに遠くなって、闇中に姿を没して了った。
泉原は唖然として暫時《しばらく》路傍に立竦《たちすく》んでいた。V停車場で見かけたのは確かにグヰンである。それにしても
前へ
次へ
全15ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
松本 泰 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング