、乗っていったボートが戻ってこないじゃあないか。おい、早く裏の為吉《ためきち》を呼んでこい! 磯公《いそこう》を呼んでこい。宝沢が兜岩へ行っているんだ! ぐずぐずするな! 時化《しけ》が来てるぞ!」
 伊東はいつにない荒々しい言葉で叫んだ。
 女中が慌てて裏木戸を出ていったかと思うと、たちまちどしゃ降りになってきた。沖の空を裂いていた稲光がだんだん激しくなり、海の底を割ってくるような雷鳴が窓ガラスをびりびり震わせた。
 雷雨はますます強くなってきた。疾風《はやて》が裏山を鳴らしている。
「何をしているんだ! まだ為吉は来ないのか!」
 伊東は苛々《いらいら》しながら裏の小窓を開けて、雨の吹き込む中に闇《やみ》を透かしたり、また表側に回っていって、怒濤《どとう》の荒れ狂う暗い海の中に見えないボートを捜し求めた。
 伊東は岩に取り縋《すが》っている宝沢の断末魔の形相を思い浮かべた。彼は部屋を歩き回っているうちに、暖炉の飾棚の上に見慣れぬ黒手帳を発見した。
「おや、宝沢の手帳だ!」
 手帳の下から、ぱらりと一枚の紙片が落ちた。それには鉛筆で、“ストーブに入るべきもの”と走書きがしてあった。

前へ 次へ
全16ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
松本 泰 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング