は連れ立って帰っていった。四階に泊まっている蔦江《つたえ》・信子・かおるの三人は、夕方店を出たきり戻らない波瑠子のことを気遣いながら床に就いた。
 午前二時、家じゅうが寝静まったとき、みのりはそっと寝床から辷《すべ》り出た。
 彼女は窓の前の障子の面を細い指で撫《な》でた。そこには昼間波瑠子が書いていった次のような点字があった。
 みのりは指先でその通信を消してしまったのち部屋を出て、階段を上りはじめた。彼女は一歩ごとに注意深く辺りの音に耳を澄ました。家の中は依然としてひっそりしている。遠くに自動車の警笛が聞こえる。
 みのりは壁から壁を伝って、表階段の正面にある青銅のビーナスの前に近づいた。その時、街灯の射《さ》し込む薄明かりの中に黒い人影があったことには、敏感な彼女も気づかなかった。

 四階の部屋に寝ていた信子は、どこかで人の呼ぶような声を聞いて目を覚ました。それは確かに店のほうであった。
「ちょっと、ちょっと、起きてちょうだい! 下で何か変な音がしたわ」
 彼女は隣のかおるを揺り起こした。
「あなた、酔っ払っていたから夢でも見たんじゃあない?」
「いいえ、確かに女の声がしたわよ」
「波瑠子さんじゃあないかしら」
 その時、階下《した》の廊下をがたがた走っていく靴音が聞こえた。
 信子は素早く電灯を点《つ》け、かおると二人で廊下へ出ようとすると、蒲団《ふとん》を被《かぶ》って慄《ふる》えていた蔦江は一人部屋に残されるのが恐ろしさに、歯を鳴らしながらその後に続いた。
 三人はひと塊になって最初の階段を下りたところで、信子が、
「鈴木《すずき》の小父《おじ》さん! 早くお店に来てください!」
 と呼び立てた。
 その時、階下でも怪しい物音を聞いたとみえて、方々で戸の開く音がした。寝巻のまま階段を跳び上がってきたのは小使の鈴木であった。
 パーラーにぱっと電灯が点いた。見ると青銅《ブロンズ》のビーナスの像の下に、白い寝巻を着たみのりがべったりと床に坐《すわ》っていた。
「どうしたんです、お嬢さん!」
 鈴木が傍《そば》へ寄って少女を抱き起こした。
「まあ、みのりさん、どうなすったの?」
「怪我《けが》でもなすったのじゃあないの!」
 階段を駆け下りた女たちは、労《いたわ》るようにみのりを長椅子《ながいす》に連れていった。
 そこへ、ワイシャツの上にガウンを羽織った主人の海保が慌ただしく駆けつけた。
「みのりか、いったいどうしたんだ? おまえはなんでこんなところへ来たの?」
 少女は父親の言葉にもだれの言葉にも答えず、電灯のほうに顔を向けていたが、長い睫毛《まつげ》の間に涙が光っていた。
「どこか怪我でもなすったのじゃあないかしら、ええ? 大丈夫?」
 信子が顔を寄せて気遣わしそうに訊《たず》ねると、少女は大きく頷《うなず》いた。
「わたし、夢現《ゆめうつつ》に女の呻《うめ》き声を聞いて目を覚ますと、お店をだれか駆けていく足音を聞いたんですよ。泥棒が入ったんじゃあないでしょうか」
 信子はだれに言うともなく言った。
「わたしも、ただならない物音を聞いて飛んできたんです」
 鈴木は裏の廊下から、階段下の便所のほうを見回りに行った。
 帳場のキャッシュ・レジスターを検《しら》べていた海保は、正面の棚を見回しながら、
「別にどこにも異常のないところを見ると、泥棒でもないらしいな」
 と、独り言のように呟《つぶや》いた。
 家じゅうをひと回りして戻ってきた鈴木は、
「旦那《だんな》、裏口の木戸が開いておりましたから、非常口を抜けて、あそこから逃げたに違いありませんよ」
 と言った。
「そう言えばさっき、わたしが物音を聞いて起き上がったとき、裏木戸のほうに靴音がしたようだった」
 と、海保が言った。
「マル公はいつもいらないときにあんなに吠《ほ》えるくせに、なんだって今夜はおとなしいんでしょうね。わたし、どうしたんだか寝つかれないで、ずっと前から目を覚ましていましたわ」
 と、蔦江が言った。
「あいつはこの節すっかり耄碌《もうろく》している。それにことによったら泥棒ではなくって、店の常連の中の痴漢が一杯機嫌で若い人たちの部屋を覗《のぞ》きに来たのかもしれない」
 と、主人が言った。
「おお気味が悪い」
 蔦江は肩を竦《すく》めた。
「だけれど、みのりさんはどうしてお店へなんかいらしったのでしょう?」
 信子は腑《ふ》に落ちないらしく言った。
 人々は顔を見合わせた。しばらくしてみのりは、
「わたしは夢を見て、寝惚《ねぼ》けてこんなところへ来てしまったの。そして、だれかに突き飛ばされて気がつきましたのよ。けれども、それも夢かもしれませんわ」
 と、初めて唇を開いた。
「ああ、そうかもしれない。とにかく風邪を引くといけないから、おまえは部屋へ帰ってお寝《やす》み。みなも早く寝たほうがいい。……べつだん何を盗まれたというわけじゃあないから、だれにも言わないほうがいい。警察へ聞こえて調べに来られたりすると、店の邪魔になるからね。さあ、もう一度よく戸締りを検《あらた》めて寝るとしよう」
 と、主人は言った。
 三人の女たちは押し合うようにして、狭い階段を上がっていった。
「かわいそうにね、みのりさんは波瑠子さんのことを思って見に来たのよ」
「波瑠子さんは、本気にもう店へ帰らないつもりなのかしら」
「きっと帰らないでしょう。わたしに荷物を親戚《しんせき》へ送ってくれなんて、置き手紙をしていきましたもの」
 と、信子が言った。

       4

『ナイル・カフェ』の奇怪な一夜が明けて、翌日の午前十一時に蒲田署の刑事が主人に会いに来た。
 刑事の話によると、その朝、蒲田水明館の裏手の竹藪《たけやぶ》に若い女の惨殺死体が発見された。絞殺したうえ顔面がめちゃめちゃに叩《たた》き潰《つぶ》してあって人相は分からないが、推定年齢二十四、五歳、身長五尺二寸、頭髪の濃い色白の女で、黒と黄の斜め縞《じま》のお召しの着物に緑色の錦紗《きんしゃ》の羽織を着ている。頭髪は美容院で結ったらしく、大きくウエーブをつけた束髪であった。ハンドバッグその他の持ち物はなく、身元はいっさい不明であったが、袂《たもと》に『ナイル・カフェ』のナプキン紙が入っていたのと、服装が女給風であったので聞き合わせに来たのであるという。
 家の者たちは驚いて詳しく様子を訊《き》くと、前夜無断で店を出たっきり帰らない波瑠子らしかった。ことに服装は、当夜の波瑠子の着衣に符合している。
 絞殺したうえ顔面を叩き潰してあるとは、よほど深い恨みを持った者の所業に違いない。
 信子は前日波瑠子から託された手紙を刑事の前に広げた。

[#ここから1字下げ]
――信ちゃん、わたしは都合の悪いことがあって、しばらくは身を隠さねばならなくなったから、明日にでもわたしの荷物をひとまとめにして、左記へ送ってくださいね。マスターにも、あなたは何も知らないような顔をしていてちょうだい。運賃としてここに五円入れておきます。
 いずれ時が来たら会いましょう。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から3字上げ]波瑠子
(届け先、府下|目黒町《めぐろまち》八四一、中山《なかやま》とし方)

 手紙の中の“都合の悪いこと”について、何か心当たりはないかという刑事の質問に、信子は、
「このごろお店へたびたび見えるハルピンから来た男をたいへんいやがっていましたから、そんなことじゃあないでしょうか」
 と言った。
 刑事はその男についていろいろと訊き糺《ただ》したが、ただ波瑠子とは以前からの知り合いらしかったということだけで、名前さえ知る者はなかった。
 主人と信子とかおるの三人は刑事に伴われて、惨殺死体を見に行った。
 それは確かに波瑠子の死骸《しがい》であると、三人が認定した。
 死体は『ナイル・カフェ』に引き取ることになった。波瑠子の身元保証人が実在の人物でなかったことが分かったからである。
 刑事は波瑠子の置き手紙によって荷物の届け先を調べ、その辺から何か犯罪の手掛かりを掴《つか》もうとした。事実、波瑠子の身元は皆目分かっていない。ただハルピン育ち、神戸《こうべ》にも大阪にもいたことがあるというだけで、現在名乗っている名前さえ虚僞か本当か分からない。
 府下目黒町八四一番地、中山としというのは白米商であった。主婦は、
「波瑠子さんという方は一年ほど前に家の二階に下宿していた人で、あれでも家に半年もいらしったでしょうかね。おとなしい、いい方でしたよ。ひところは葉書などを寄越しましたが、この節はどこにいらっしゃるかいっこうに存じません」
 と言うのであった。

       5

 波瑠子の遺骸《いがい》はカフェに続いた海保ギャレージの一室に置かれ、その前の机の上に貧しい花が手向けてあった。
 女給たちは代わり合って焼香した。あまりに急な、しかも尋常でない朋輩《ほうばい》の死に女たちは嗚咽《おえつ》する者もあった。目を赤く腫《は》らした信子は波瑠子と特別親しかったので店には出ず、なにかと葬儀の用意をしていた。
 主人の海保は青い顔をして黙り込んでいるし、小使の鈴木は鼻を詰まらせている。だが、人々の中でだれよりもいちばん悲しく見えたのはみのりであった。彼女は目が見えないうえに、口まで利けなくなったように口を開かず、影法師のように部屋の片隅で坐《すわ》っていた。
 心ばかりの告別式が済んで、いよいよ納棺するときが来た。するとみのりは不意に立ち上がって、泳ぐような手付きをしながら柩《ひつぎ》の傍《そば》へ進み寄った。そして、死骸《しがい》の上へ最後の愛撫《あいぶ》をしていたが、経帷子《きょうかたびら》に包まれた腕に触れたとき、
「あっ!」
 と驚愕《きょうがく》の叫びを上げた。彼女は顔色を変えて、なにやら訳の分からぬことを口走りながら部屋を出ていってしまった。
 翌日、みのりは信子に会ったとき、
「わたし、どうしても波瑠子さんが亡くなられたとは信じられないのよ。いまでもあの方がどこかでわたしを待っていてくださるような気がするの。……もしあの方が本当にこの世にいないとすれば、わたしのような黒鳥《くろどり》は生きている甲斐《かい》はないわ」
 と、感傷的に言った。
 みのりはそれから三日目に家出をしたが、行った先はその日のうちに分かった。それは横浜に住んでいる彼女のピアノの先生からの手紙に、みのりは東京へ帰りたくないと言っているから、差し支えなければ当分預かってもよいと言ってきたからだった。
 海保はチョッキの内隠し袋に縫い込んだ、ダイヤモンドの膨らみを上着の上から撫《な》でて、
「これでいい、月賦の自動車は引き上げられそうだし、店は倒れかかっているし、夜逃げには誂《あつら》え向きだ。足手纏《あしでまと》いになると思っていたみのりは自分から片をつけるし、まったく幸運てやつは向こうからぶつかってくるものだよ」
 と呟《つぶや》いた。
 彼は部屋の中を見回して、あれこれとめぼしいものを物色しながら、三年前に行った上海の賑《にぎ》やかな新世界|界隈《かいわい》を思い浮かべていた。
 海保はうるさく付き纏う情婦の百合江《ゆりえ》を殺してしまった。そして、その死体を完全に処分してしまった――少なくとも彼はそう思っていた――。それから、かねがね目をつけていた波瑠子の宝石をやすやすと手に入れることができた。彼は世の中は案外甘いものだと、心の底で赤い舌を出した。



底本:「清風荘事件 他8編」春陽文庫、春陽堂書店
   1995(平成7)年7月10日初版発行
入力:大野晋
校正:ちはる
2001年4月30日公開
2006年4月14日修正
青空文庫作成ファイル:
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