宝石の序曲
松本泰
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)勾配《こうばい》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)府下|目黒町《めぐろまち》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)耳にたこ[#「たこ」に傍点]が
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1
狭い、勾配《こうばい》の急な裏梯子《うらばしご》を上り切ったところの細長い板の間は、突き当たりに厚いカーテンがかかっていて、古椅子《ふるいす》や古テーブルなどを積み重ね、片側をわずかに人が通れるだけ開けてある。そこは階下に通ずる非常口で、めったに使うことはなかった。
梯子段に近い明かり取り窓の下に、黒天鵞絨《くろビロード》の洋服を着た盲目の少女が夕陽《ゆうひ》の中の鉄棒の影のように立っている。長い睫毛《まつげ》の下に寂しく閉じている目を心持ち上へ上げて、彼女はじっと耳を澄ましていた。
カーテンを隔てた廊下向こうのパーラーから、グラスの触れ合う音や女給たちの陽気な声が聞こえていた。
「ああ、いらしったわ!」
少女の口もとに微笑が浮かんだ。彼女の耳には聞こえない音まで、聞こえていた。
しばらくして遠くの廊下に、軽い足音がした。
緑色のカーテンが揺れて、白い顔が出た。
「あら、みのりさん、あなたはまた来ているのね。お父さまに見つかると叱《しか》られるわ。さあお部屋へ行っていらっしゃいね」
「波瑠子《はるこ》さん、あまり叱らないでね。わたし、お父さまに叱られるのは我慢するけれども、あなたに叱られるのは辛《つら》いわ。わたしね、あなたがここまで来てくださらないでも、陰であなたの声を聞いたり足音を聞いたりしているだけでも嬉《うれ》しいのよ」
「まあ、かわいい人ね」
波瑠子は少女の額に接吻《せっぷん》した。
「波瑠子さん、またあのいやなハルピンの方が来ていらっしゃるのでしょう? わたし、心配よ。どうかして、あの方をお店へ来させないようにする法はないでしょうか」
「あの人が来ているなんて、どうしてみのりさん分かって?」
「わたしには分かるわよ。あなたの着物に、この間と同じトルコ煙草《たばこ》の移り香がしていますもの。そして、あなたはあの方が来て以来、急に心配事ができたのね。あの方はきっと、悪い人でしょう」
「ええ、わたしにとっては悪い人ですけれども……わたしのほうがもっと悪い人かもしれないわ。……ああ、みのりさん、あなたにお頼みがあるのよ。わたしの大切な大切なものを、だれにも知らせずにそっと預かっていてくださらない?」
みのりは大きく頷《うなず》いた。
その時、広間のほうでだれかが波瑠子を捜している声がした。
「みのりさん、ではあとでね。あなたはもうこんなところにいないで、早く下へいらっしゃい」
波瑠子はカーテンの外へ出ていった。みのりは耳を傾けて遠ざかっていく足音を聞いたのち、自分は音も立てずに暗い梯子の下に消えてしまった。
広間へ戻った波瑠子は、棕櫚竹《しゅろちく》の鉢植えの陰になっているテーブルのほうへ行った。そこには頬骨《ほおぼね》の張った血色の悪い、三十前後の背広を着た男がいた。
「まあ立っていないで、ここへおかけ。ぼくはきみに悪意なんぞを持っているんじゃあないよ。悪意どころか、ぼくは五年振りにきみを捜し当てて、まだ神さまに見捨てられなかったことをしみじみ感謝しているくらいなんだ」
と、男は言った。
「この広い東京であなたに見つかるなんて、本当に運ですわね。けれどもわたしはあなたと結婚したわけではなし……そりゃ子供のときにどんな約束をしたかしれませんが、五年もこうして隠れていたんですもの、あなたもそれだけで分かってくだすってもよくはない?」
波瑠子は冷ややかに言った。
「子供のとき? それはいけない。親父《おやじ》の大切な宝石を盗んで逃げ、汽船では身投げした女になり済まして、横山《よこやま》ハル子《こ》は死んだことに作ったりした手際は、子供の知恵とは言われないからね」
「あなたはあのダイヤモンドを狙《ねら》っているのね。けれどもあのダイヤモンドだって、曰《いわ》くつきの代物よ。張《ちょう》さんのものをあなたのお父さんが……」
「しっ! あなたは何を言っているんだ。張は取引を済ましたあとで勝手に酒を飲み歩いて、追剥《おいは》ぎに殺されたのじゃあないか。滅多なことを言ってもらっては困る」
男は恐ろしい目で辺りを見回した。
パーラーにはまだ客はいなかった。正面の壁から階段の上まで、ずらりと並んだエジプト模様の壁画の目が一斉にこっちを向いていた。
「……それはわたしが言い過ぎたかもしれませんわ。けれども、あれはあなたのお父さんがわたしから奪い取った貞操の代償として、わたしが所有する権利があるのよ。本当のことを言えば、あんなダイヤモンド一つぐらいじゃあ償われないものだわ」
「親父に関することなどは、ぼくはちっとも知りたくない。ぼくはただ、あなたの昔の愛を呼び覚ましたいのだ。ぼくはいまだって、まだ真剣にあなたを思いつづけているのだ。あなたの返事一つで、ぼくは即座に執念深い悪魔にもなれる。波瑠さん、ぼくはここへ酒を飲みに来たのでもなく、みずからの覚悟を述べに来たのでもなく、あなたの最後の返事を聞きに来たのですよ」
しばし沈黙が続いた。その間に、帳場の時計が忙《せわ》しく四時を打った。
いちばん年齢《とし》の若い女給の信子《のぶこ》は遠くから気遣わしそうに波瑠子を眺めていたが、やがて用ありげに二人の傍《そば》を通り抜けて、衝立《ついたて》の背後をひと回りしてもとのところへ戻った。そして、陽気なジャズをかけはじめた。
波瑠子はついに決心して言った。
「では今晩、お店を仕舞ってから十一時半に蒲田新道《かまたしんみち》の水明館《すいめいかん》でお会いしましょう。そして、もう一度よく相談をしましょう」
二人はそれからいっそう声を低めて、何事か話し合った。そして“ハルピンから来た男”は間もなく、その『ナイル・カフェ』を立ち去った。
2
電灯が点《つ》くころから、ぼつぼつ中折帽子やステッキが階段を上がってきた。騒がしいジャズと煙草《たばこ》の煙と、屈託のない女給たちの笑声に、賑《にぎ》やかなカフェの夜が織り出されていった。
早番だった波瑠子は五時の交替にそっと四階へ上がって、だれもいない部屋の片隅で手紙を書いていた。彼女はあらかじめ文案をしていたとみえ、ペンを執るとすらすらと手紙を書き終わってそれを懐にしまい、鏡台の前で顔を直しているところへ、カフェの経営者の海保《かいほ》が入ってきた。
波瑠子は鏡の中に映った異様な男の目を見ると、いやな顔をして立ち上がった。
「旦那《だんな》、またいらしったの。わたし一人のときにこんなところへいらしったりしちゃあ、みなに痛くもないお腹《なか》を探られて、わたし困るわよ」
「人の思惑なんぞはどうだって構わないじゃあないか」
「そうはいきませんわ。わたしだってこんないんちきな稼業をしていますけれども、木偶人形《でくにんぎょう》じゃあありませんからね。見栄《みえ》も外聞もありますわ」
「波瑠ちゃん、なにもきみのように、そう世の中を狭く見ることはないよ。これでも相当な懸賞はついているつもりなんだからね」
「まあ! 懸賞? 失礼しちゃうわね。懸賞というのは、二、三枚の着物を買ってくだすって、六カ月定期のお内儀《かみ》さんにしておくということでしょう」
「冗談じゃあない、いつまでそんな馬鹿《ばか》をしていられるものじゃあない。わたしは本気で言っているんだよ。娘のみのりも不思議にきみに懐いているんだから、あの子もきみのような保護者ができればどんなに幸福かしれない」
「それとこれは別問題よ。……ああ、わたし、お店へ出なくてはいけないわ」
波瑠子が先になって廊下へ出ると、男は、
「波瑠ちゃん、そんな強いことを言って男に恥をかかせるものじゃあない。もう一度考え直してみておくれ。きみだっていつまで女給をしているわけでもなかろうから、そのほうがきみのためじゃあないかね」
と冗談らしく後ろから波瑠子の肩を抱えた。
それまでぶりぶりしていた波瑠子は急に何か思いついたらしく、がらりと態度を変えた。
「でもわたし、いつもみんなに立派な口を利いているんですから、つまらない噂《うわさ》なんか立てられたくないのよ」
「そこは如才なくやるさ」
「では、どこかへ行くの? 蒲田の水明館?」
波瑠子は肩を揺すって笑いながら言った。
「さすがに知っているね」
「だって、お店に来るお客さんたちがよく誘いますもの。耳にたこ[#「たこ」に傍点]ができるほど聞いていますわ」
二人はその晩の十一時半に、水明館の横手で落ち合う約束をした。
波瑠子は店へは顔を出さずに、非常口から裏梯子《うらばしご》を伝ってみのりを捜しに行ったが、少女が部屋に見えなかったので、小楊枝《こようじ》の先で障子に点字を書き残してふたたび店へ戻った。彼女は朋輩《ほうばい》の信子に、
「わたし十分ばかりお店を空けるから、旦那が聞いたらなんとか要領よくやっておいてちょうだいね。それからここに書いてあることは明日《あした》でいいのよ。頼まれてちょうだいね」
と最前の手紙を渡して、暗くなった往来へ消えてしまった。
それから一時間ほどして、波瑠子は丸ビルの明治側の街路樹の陰に立っていた。そこへ外套《がいとう》の襟を立てた洋装の女が足早に歩いてきた。
「待って?」
「ええ、十分ばかり。でも、わりあいに早く来られたわね」
「電話を聞いてすぐ飛んできたのよ。で、波瑠ちゃん、いったいどうしたっていうの?」
「わたしね、お店を辞めたのよ。もっともこの間じゅうから腹の内で決めていたんだけれども、あの親父《おやじ》があんまりいけ図々《ずうずう》しくっていやになってしまって、予定を繰り上げたわけだわ」
「じゃあ、海保は今度はあなたに白羽の矢を立てたのね。もっとも、あなたは奇麗だからね」
洋装の女はいくらか嫌みっぽく言った。
「何を言っているのばかばかしい! この人はそんなことじゃあ、まだ未練があるのね」
「でも、あの人の本当の性質はあんなじゃあなくってよ。みんな花江《はなえ》の指金だわ」
「その花江だってあんな目に遭ってさ、いまは東京にはいないっていうじゃあないの」
「本当にそんな人かしら。でもわたし、半年もこうして遊んでいるうちに、世の中なんて何をしたってろくなことはないとつくづくいやになってしまったわ。わたし、店にいたときがいちばん幸せだったのよ」
「百合《ゆり》ちゃん、あの男と撚《よ》りを戻そうなんて弱気になっちゃだめよ。いっそ方針を変えて、一年や二年遊んで暮らせるだけ搾《しぼ》り取っておやりなさいよ」
波瑠子はその時、数間先の自動車の傍《そば》に立っている人影を見て、いまいましげに肩を竦《すく》めた。そこにはまた、ハルピンから来た男の蛇のような目が光っていた。
二人は急に声を潜めてなにやら話し合っていたが、街路樹の葉が疎《まば》らに影を落としているアスファルトの道路を横切って東京駅地下室の美容院の階段を下りていった。
二人は二時間ほどして東京駅の八重洲口《やえすぐち》の改札を出ると、とある横町の清涼飲料水の看板の出ている酒場の路地へ姿を消した。
高い建物の上に遅い月が懸かっていた。夜はまだ更けてはいないが辺りは不思議に静かで、どこかのダンスホールから床を踏む靴と寂しいサキソホンの音が聞こえてくる。
清涼飲料水の看板を掲げた酒場の薄紫色のガラス扉がおりおり開いて、洋服を着た男たちが出たり入ったりしていた。
十一時を少し回ったころ、その路地から最前の二人が出てきて左右に別れた。
3
数寄屋橋《すきやばし》外の『ナイル・カフェ』では、八時に外出した主人の海保が十一時に戻ってきて、風邪を引いたとみえ寒気がすると言い、ウイスキーを二、三杯ひっかけて棟続きの寝室へ退いてしまった。十一時に店を仕舞って、通いの女給たち
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