ホヤを被せたような星が、朧に光っていた。その通りには更に裏通りへ通ずる石畳を敷いた急勾配の露路が幾つもあった。それ等は孰れも両側の高い建物に挟まれて黒い陰の中に埋っていた。
私は下宿まで歩いて帰る積りで、人通りの稀れな、明るい街路を靴音を立てながら、歩いていった。とある露路の角に差かかった時、突然、啻《ただ》ならぬ女の叫声をきいたので、驚いて足を駐めると、不意に真暗な露路から飛出してきた女と危く衝突《ぶつか》りそうになった。私は蹌踉《よろめ》きかかった女をしっかり抱きとめて、
「どうかしましたか」といったが、街灯の光に照出された白蝋のような女の顔を見ると、余りの驚愕に私は言葉が閊《つか》えてしまった。それは夕方以来、私を悩ましていた、あの美しい女である。
「早く、何卒、タクシーを呼んで下さい。早く、早く」女は激しく息をはずませながらいった。
私は彼女を抱くようにして、夢中で大通りの四辻まで走っていって、折よく通りかかった空車を呼止めた。
彼女を乗せた自動車が雑鬧《ざっとう》のうちを無事に疾走り去ってしまうのを見届けると、私はホッとして元の道路へ引返した。
その時は既に数個の黒い人影がバラバラと露路の方へ走ってゆくところであった。物見高い群衆が刻々に謂集《あつま》ってきて、狭い露路は倏忽《たちまち》黒山のようになった。私は人垣の間を潜って、ようやく前へ出た。見ると、十数分前にサボイ劇場で、私の隣席にいた若い仏蘭西人が恐ろしい形相をして仰向に仆《たお》れている。真白なシャツの胸からカラーにかけて、生々しい鮮血が流れていた。
「心臓をやられたのだ」と誰かがいった。
「ナイフで一突にやったらしい」それに応えるものがあった。
「どけどけ、医者が来たんだ」私の傍にいた男は露路の外に停った自動車の音をきいて、後を振向いた途端、男の携《も》っていた懐中電灯がパッと私の足下を照らしていった。その瞬間私は自分の右足のわきに、見覚えのある彼女の扇子についていた緋房を発見した。それを見ると私は我事のように胸を跳らせた。そして人々が犇《ひしめ》き合っているうちに、大決心をもって落ちている緋房をそっと拾って掌に丸めこむと素知らぬ様子で、其場を立去った。
二
翌日は日曜であった。私は寝台の上で丸太を倒したように、前後も知らず睡り続けていた。眼を覚すと、窓を洩れてくる薄光が、壁の石版画の額縁にさしていた。私は床の上へ起上って煙草を吸ったが、無数の縄を後頭部にくくりつけられているようで、ボンヤリと昨夜の夢を追っていた。
「昨夜の事件は何だろう」私はハッキリ、暗い露路の中で仰向けに仆れていた男の姿を思い浮べた。誰があの男を殺したのだろう、只の一突きで心臓をやられている。あれだけの事をやるには余程の力と、胆力がなくてはならぬ。そして不意に露路を飛出してきたあの時の彼女の慌て方、それから現場に落ちていた緋房、それは何事を語るものだろう。……でも私はあの高貴な、美しい顔を考えると、どうしても彼女を疑う気にはなれなかった。
時計を見ると、十二時を過ぎている。扉の外においてある水差の湯は冷くなっていた。私は苦笑しながら手早く衣物を着換えて戸外へ出た。
日曜の事であるから職業紹介所へいっても休みである。私は先ず停車場へいって新聞を買い、簡単に食事でもして来ようと思った。酒場の前を曲って遊園地の横手へ出ると、擦り切れた箒子《ほうき》を傍に立かけて、呆乎《ぼんやり》鉄柵に凭りかかっていた見|窄《すぼ》らしい様子をした老人が、
「旦那様、今日は」と叮嚀に挨拶をした。それはいっつもこの界隈を根城にして、通りかかりの人々から合力を受けている見知越の男である。これ迄も私は特別不機嫌な時を除いて、顔を見る度に一つ二つの銅貨を遣っていたものだ。その日も私は立止って無意識にポケットへ手を入れた。昨夜の中に消費果してしまう筈の金が、まだ幾許か残っていたので、どうせ貧乏になりついでだと思って、掴出した貨幣を老人の古帽子の中へ投入れてやった。その時、指先にからまって出てきた緋房がバサリと敷石の上へ落ちた。
「これは……」と思う間に老人は故意か偶然か、大きな破れ靴の下に緋房を踏かくしてしまった。私は鳥渡当惑して、取返したものか、それとも其儘にしたものか、思案に迷った。要するに私は気負けがしたのである。靴の下の緋房を問題にして騒ぎ立てるのは後日に面倒を惹起する基となりはせぬかというような弁疏《いいわけ》を考えて、後に心を残しながら、老人の傍を離れた。
私はV停車場の構内で、新聞の正午版を買った。社会欄の下段に前夜ストランドの裏小路に起った殺人事件の顛末が掲げてあった。私は息も吐かず、その記事を読終ると、安堵の思いをした。被害者は旅廻りの伊太利曲芸団のひとりであるという事である。中には無論「彼女」という文字も、「緋房」という文字もなかった。
私は停車場の前通りの店で粗末な食事を済すと、西へ廻った緯日《よこひ》の黄色くさしている敷石の上を戻っていった。
遊園地の鉄柵にはもう老人の姿は見えなかった。無論私の落した緋房などはなかった。
其晩、私はじっと下宿に落着いている事が出来なかった。夜食を済せるとフラフラと殺人のあったストランドを廻り歩いて夜更けて宿へ帰った。
翌日も、翌日も、私は恐ろしいその夜の出来事計り考えていたが、それでも職業紹介所へ行ったり、新聞社へ寄って求職の広告を出したりした。職業紹介所ではホテルの皿洗いの口と、郊外の某家の下男の口と、倫敦から三十|哩《マイル》程離れた華族の別荘の犬ボーイの口があった。最後の口がよさそうなので、こちらは日本人の事であるから、一応手紙で照会して貰う事にした。紹介所を出ると、二三日前遊園地のわきで緋房を踏み隠した老人が扉口に凭りかかっていたが、私を見て叮嚀に挨拶をした。
「こんな遠くまで来ているのかね」
「ヘイ、いいお天気で誠に結構でございます。ヘッヘッヘ」老人は頓珍漢な挨拶をして愛想笑いをした。
三日目の新聞にも、ストランドの路上の殺人事件に就ては、一行の後報もなかった。柏が私が何をしているかと思って覗きに来たのはその晩であった。
「どうだ職業は見付かりそうかね」
「犬ボーイの口がある。先方から返事のあり次第直ぐ出掛ける事になっている」
「犬ボーイとは恐入ったね。その決心はいいとして、ここにこんな広告が出ている」柏はポケットから新聞を引出して広告欄を指差した。
[#ここから罫囲み]
[#ここから2段組]
求秘書[#「求秘書」は3段階大きな文字]
[#改段]
東洋の人情風俗に精通せる、係累《けいるい》なき青年紳士を求む、当方住込、
履歴書を添え申出られたし。(姓名在社三六〇号)
[#ここで段組、罫囲み終わり]
「結構な話だが、競争者が多いだろうし、それにこっちは日本人ときているから、先ず採用される見込はないね」私は気の乗ない返事をした。
「そんな心掛けだからいけない。注文通り係累はないし、東洋の事情には通じ過ぎているじゃアないか。物は試しだ。兎に角手紙を出して当って見るがいい」柏は熱心にいった。この男は自分のいいと思った事は、何事に拘らず他人に強いる癖がある。無下に断れば気を悪くするに極っているので、云わるるままに履歴書を認め、希望条件はなしと記した。
「これで上等だ。俺が投函してきてやる」といって柏はフイと表へ出ていったが、それっきり、何時まで待っても帰って来なかった。
三
翌日の午後、私は思掛けぬ手紙を受取った。それは前日の広告主からの返事である。
――拝啓、
貴書拝見仕候、御面談致し度に付この状着次第下記へ御来訪相成度候。
[#地から5字上げ]倫敦市南区グレー街十番
[#地から3字上げ]ガスケル家
飯田保次《いいだやすつぐ》殿
「こりゃ意外だ」私は思わず呟いた。斯う雑作なく職業にありつくのは聊《いささ》か飽気ないような気がするが、満更悪いものでもない。私は間もなく家を出た。
道々私を奇異に感じさせたのは、広告主があまりに近いところに住んでいるという事であった。考えて見れば世の中には随分就職難に苦しんでいるものが多い。然しながら需要と供給は案外目と鼻の間にあっても、うまくぶつかり[#「ぶつかり」に傍点]合わないものだ。私の場合は非常に幸運な機会《チャンス》であらねばならない。
グレー街というのは大通りを二つ越した閑静な一劃で、十番のガスケル家は木立の多い邸宅である。その家ならば散歩のゆき帰りによく前を通った事があるが、ついぞ御用聞の出入さえ見掛けた事のない家である。私は高い石段を上って、緑色に塗った玄関の厚い扉の前に立った。案内を乞うと、稍|久時《しばらく》して廊下の奥の方から重い足音が聞えてきた。ガチリと扉を開けて痩せた婆さんが顔を出した。
「お前さん。何用です」婆さんは迂散臭《うさんくさ》そうにいった。
私は黙って婆さんの鼻先へ手紙を突出して見せた。婆さんは霎時私の顔と、手紙を見較べていたが、大きく頷首いて私を室内へ導き入れた。
「ここで待っていて下さい」婆さんは私をガランとした火の気のない客間へ残して奥の方へ引込んだ。
部屋は往来に面していたが、焦茶色のカーテンが外の光を遮って暗く陰気であった。永く使わないと見えて飾棚の上にも、椅子の肘にもザラザラと塵挨が積っていた。間もなく先刻の婆さんが扉をあけて、
「旦那様がすぐお目にかかるそうですから、どうぞこちらへ来て下さい。旦那様は御病人で、お気が短いから気をつけて下さいよ」といった。
階段の下から廊下を右へ曲って、とある奥まった部屋の前までゆくと、戸口を指さしてクルリと引返していった。
婆さんの姿が廊下の曲り角に消えてしまうまで私は後を見送っていたが、詮方なく教えられた戸を軽く叩くと、内から返事があった。
細長い大きな部屋の一隅にホロホロと暖炉《ストーブ》を焚いて深い凭《より》椅子に埋まっていた老人は、私を見ると杖を挙げて、
「もっとこっちへ来るがいい。儂はこの通りの※[#「やまいだれ+発」、335−9]疾者でな。立って歩く事が出来ない」見た様子の割に若々しい声でいった。私はいわれるままに側へ寄って、自分を名乗った。
「儂の世話はアグネスという女中が見てくれるので、君の暇は充分ある。君の手紙には希望条件はないとあったが、ない事はあるまい。一年の給料は?」
「実は私はまだ給料というものを他人から貰った事がありませんし、それに私の仕事の性質も伺っていないので見当がつかないのです」
「よろしい。では給料の点は儂に任《まか》しておくがいい、それから君は何日何時でも旅行に出られるだろうね。儂が新聞広告で係累《けいるい》のない人間を求めたのはそうした理由だよ」
「すぐ其場から、何処へでも飛出してゆけます。然し私の仕事は?」
「仕事などは誰にでも出来る事だから、心配せんでもよろしい。ところで儂の方に条件があるが、それを聞いた上で返事をして貰わねばならぬ。
第一は儂の命令がない限り、如何なる用事があろうとも絶対にこの部屋へ入る事はならぬ。
第二は夜間九時以後は庭先を歩かぬ事。儂は寝付が不良《わる》くって困っておるのでな、夜分庭先などを歩かれると、気になって仕方がないのだよ」老人は微笑いながら更に言葉を続けて、
「それから飯田保次という君の姓だがね、呼び悪《にく》いからヒギンスと名乗って貰いたい」そのような他愛のない条件なら、何でもない。私は異議なく承知した。老人は気が早い。彼は満足気に私の手を堅く握って、
「家の晩餐は七時だから、それ迄に引移ってくるがいい」といった。
ガスケル老人との会見は三十分程で済んだ。
私は広い街路を夕陽を一杯に浴びながら、下宿へ帰った。地下室の家族の食堂へ下りていって、揉手をしながら立っている内儀さんに、私はこんな意味の事をいった。――詮《つま》り、これから自活する決心で今晩から某家へ雇われる事になった。永く辛抱が出来ればいいが、未来の事は誰にも判らない。不良《わ》るかったら
前へ
次へ
全7ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
松本 泰 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング