う事である。中には無論「彼女」という文字も、「緋房」という文字もなかった。
 私は停車場の前通りの店で粗末な食事を済すと、西へ廻った緯日《よこひ》の黄色くさしている敷石の上を戻っていった。
 遊園地の鉄柵にはもう老人の姿は見えなかった。無論私の落した緋房などはなかった。
 其晩、私はじっと下宿に落着いている事が出来なかった。夜食を済せるとフラフラと殺人のあったストランドを廻り歩いて夜更けて宿へ帰った。
 翌日も、翌日も、私は恐ろしいその夜の出来事計り考えていたが、それでも職業紹介所へ行ったり、新聞社へ寄って求職の広告を出したりした。職業紹介所ではホテルの皿洗いの口と、郊外の某家の下男の口と、倫敦から三十|哩《マイル》程離れた華族の別荘の犬ボーイの口があった。最後の口がよさそうなので、こちらは日本人の事であるから、一応手紙で照会して貰う事にした。紹介所を出ると、二三日前遊園地のわきで緋房を踏み隠した老人が扉口に凭りかかっていたが、私を見て叮嚀に挨拶をした。
「こんな遠くまで来ているのかね」
「ヘイ、いいお天気で誠に結構でございます。ヘッヘッヘ」老人は頓珍漢な挨拶をして愛想笑いをした。
 
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