何時でも帰ってくるから、その時はまた面倒をかけますよ。――内儀さんは眼をしょぼしょぼ[#「しょぼしょぼ」に傍点]させながら黙って私の言葉を聞いていたが、
「いやになったら遠慮なしに帰っていらっしゃい」と自分の息子を送り出すような調子でいった。何としても内儀さんとは一年越の馴染である。朝夕寝起きをした部屋にも名残が惜まれた。荷物をまとめてタクシーに積込み、住馴れた家を後にした時は不思議に淋しい気がした。
四
初ての夜であったせいか、翌日は平常より余程早く目覚めた。木立の多い裏庭の樹木の繁みに小鳥の影がチラチラ動いていた。灌木の間を貫いている明るい小径の突あたりに、終日、青空の白雲を映しているような古い池がある。庭園はさして広くはないが、三方の煉瓦塀の上に常盤樹が覆いかぶさるように枝を交えている様は、市中の住居とは思われない程であった。
フト気がつくと、窓の下の横通りに面した庭木戸が二寸計り開いていて、屋根を離れた朝日が戸の隙間を赤くしていた。
「誰かが庭口から出入りしたのだな、然し植木屋が入っている訳でなし、家族のものが枯木を積重ねたあのような庭口から出入りする筈はないが……」とそんな事を漠然と思耽っていると、突然静まり返った階下から無気味な食事の鐘が聞えてきた。
私は手早く衣服を着けて食堂へ下りると、老人はとっくに食卓に就いていた。
「今日はS街の国民銀行へいって、十二番の窓口へこの書類を差出し、そこで用紙に署名をしてきて貰いたい」老人は私に銀行宛の厚い状袋を渡した。
国民銀行はS街の辻にあった。私が食事を済して銀行へついたのは九時半であった。窓口へ書類を差出して前の椅子に控えていると、商人体の男達や、白手袋に杖《ステッキ》を持った気取った男や、三つ釦のこくめい[#「こくめい」に傍点]なモーニングを着た律義らしい老人、其他とりどりに盛装した若い女達が、広い構内をざわざわ[#「ざわざわ」に傍点]と歩いていた。
私は夫等の人達が入替り立替り、重い押戸を開けて出てゆく姿を眺めているうちに、思掛けなく雑鬧のうちに、先夜サボイで見掛けた老婦人とぱったり視線を合せた。私は思わず声を出して馳寄ろうとしたが、不良い工合に私の番がきて、窓口から顔を出した行員が頻りに、
「ヒギンスさん、ヒギンスさん」と私の仮名を呼んだ。そうなっては仕方がない。私は行員の差出した紙片を引たくるようにして、手早く、ワイ・ヒギンスと署名した。私は自分の用事を済してから根気よく人々の間を泳いで探し廻ったが、問題の老婦人の姿は既《も》う何処にも見えなかった。
それから間もなく私は銀行を出た。アスファルトを敷いた舗道に早春の太陽がきらきら[#「きらきら」に傍点]と躍っていた。そこには十数台の自動車が、ずらり[#「ずらり」に傍点]と一列に並んでいて、その一番端れの自動車の横手に、又しても私の下宿の居まわりで見掛ける例の老人が、その自動車の中へ首を突込んで親しげに何事か話合っていた。
「オヤオヤ」と思う瞬間、銀行から先刻の老婦人が出てきて、小走りに舗道を横切ってその自動車へ乗った。
同時に自動車は粗末な服装をした老人を後に残して、商家の立並んだ大通へ疾走《はし》っていった。
私は自分でも意識せずに傍に停っている空車に片足を掛けていた。私の乗った自動車は強く一揺れ揺れて一散に、先へゆく自動車を追った。自動車は、雑鬧した街を折れ曲って百貨店の横をB街まで上っていった、が更に大迂廻をして公園の下へ出た。慥に私の車が後を尾行《つ》けているのを知って、どうにかして巻こうとしているらしかった。その中、先の車は何と思ったか急に速力を弛めて、とある家の前で停った。
「此処でよろしい」私は半丁計り手前で車を飛下りた。と見ると、空色のアフターヌウンに黒い毛皮の外套を着た若い婦人と、先刻銀行で顔を合せた老婦人が、飛鳥のような素早さで自動車から下りて、石段を馳上るなり、厚い扉の裡に姿を隠してしまった。毛皮の外套を着た若い婦人は紛れもなく、先夜の「愛の杯」の主人公であった。
私は久時して何気ない様子で、二人の入った家の前を通って見た。それは表通りの窓を悉《ことごと》く塗りつぶしてある、古風な家で小さな金具に一〇一番と記してあった。
家の前を通り過ぎた時、顔をあげると、高い三階の窓掛けがチラと動いた。誰かが窓掛けの後から覗いていたらしかった。私は水をかけられるようにハッ[#「ハッ」に傍点]として、二軒目の家から街灯の柱の立っている、最初の横町を曲ってしまった。
何かしら私はすっかり重荷を下したような心持で、敷石の上を歩いていると、すぐ背後に気忙しい小刻みの靴音が聞え、続いて、
「モシモシ、失礼ですが、鳥渡……」という婦人の声がした。振返ると、何時の間にか先刻の老婦
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