気を悪くするに極っているので、云わるるままに履歴書を認め、希望条件はなしと記した。
「これで上等だ。俺が投函してきてやる」といって柏はフイと表へ出ていったが、それっきり、何時まで待っても帰って来なかった。
三
翌日の午後、私は思掛けぬ手紙を受取った。それは前日の広告主からの返事である。
――拝啓、
貴書拝見仕候、御面談致し度に付この状着次第下記へ御来訪相成度候。
[#地から5字上げ]倫敦市南区グレー街十番
[#地から3字上げ]ガスケル家
飯田保次《いいだやすつぐ》殿
「こりゃ意外だ」私は思わず呟いた。斯う雑作なく職業にありつくのは聊《いささ》か飽気ないような気がするが、満更悪いものでもない。私は間もなく家を出た。
道々私を奇異に感じさせたのは、広告主があまりに近いところに住んでいるという事であった。考えて見れば世の中には随分就職難に苦しんでいるものが多い。然しながら需要と供給は案外目と鼻の間にあっても、うまくぶつかり[#「ぶつかり」に傍点]合わないものだ。私の場合は非常に幸運な機会《チャンス》であらねばならない。
グレー街というのは大通りを二つ越した閑静な一劃で、十番のガスケル家は木立の多い邸宅である。その家ならば散歩のゆき帰りによく前を通った事があるが、ついぞ御用聞の出入さえ見掛けた事のない家である。私は高い石段を上って、緑色に塗った玄関の厚い扉の前に立った。案内を乞うと、稍|久時《しばらく》して廊下の奥の方から重い足音が聞えてきた。ガチリと扉を開けて痩せた婆さんが顔を出した。
「お前さん。何用です」婆さんは迂散臭《うさんくさ》そうにいった。
私は黙って婆さんの鼻先へ手紙を突出して見せた。婆さんは霎時私の顔と、手紙を見較べていたが、大きく頷首いて私を室内へ導き入れた。
「ここで待っていて下さい」婆さんは私をガランとした火の気のない客間へ残して奥の方へ引込んだ。
部屋は往来に面していたが、焦茶色のカーテンが外の光を遮って暗く陰気であった。永く使わないと見えて飾棚の上にも、椅子の肘にもザラザラと塵挨が積っていた。間もなく先刻の婆さんが扉をあけて、
「旦那様がすぐお目にかかるそうですから、どうぞこちらへ来て下さい。旦那様は御病人で、お気が短いから気をつけて下さいよ」といった。
階段の下から廊下を右へ曲って、とある奥まった部屋の前までゆくと、戸口を指さしてクルリと引返していった。
婆さんの姿が廊下の曲り角に消えてしまうまで私は後を見送っていたが、詮方なく教えられた戸を軽く叩くと、内から返事があった。
細長い大きな部屋の一隅にホロホロと暖炉《ストーブ》を焚いて深い凭《より》椅子に埋まっていた老人は、私を見ると杖を挙げて、
「もっとこっちへ来るがいい。儂はこの通りの※[#「やまいだれ+発」、335−9]疾者でな。立って歩く事が出来ない」見た様子の割に若々しい声でいった。私はいわれるままに側へ寄って、自分を名乗った。
「儂の世話はアグネスという女中が見てくれるので、君の暇は充分ある。君の手紙には希望条件はないとあったが、ない事はあるまい。一年の給料は?」
「実は私はまだ給料というものを他人から貰った事がありませんし、それに私の仕事の性質も伺っていないので見当がつかないのです」
「よろしい。では給料の点は儂に任《まか》しておくがいい、それから君は何日何時でも旅行に出られるだろうね。儂が新聞広告で係累《けいるい》のない人間を求めたのはそうした理由だよ」
「すぐ其場から、何処へでも飛出してゆけます。然し私の仕事は?」
「仕事などは誰にでも出来る事だから、心配せんでもよろしい。ところで儂の方に条件があるが、それを聞いた上で返事をして貰わねばならぬ。
第一は儂の命令がない限り、如何なる用事があろうとも絶対にこの部屋へ入る事はならぬ。
第二は夜間九時以後は庭先を歩かぬ事。儂は寝付が不良《わる》くって困っておるのでな、夜分庭先などを歩かれると、気になって仕方がないのだよ」老人は微笑いながら更に言葉を続けて、
「それから飯田保次という君の姓だがね、呼び悪《にく》いからヒギンスと名乗って貰いたい」そのような他愛のない条件なら、何でもない。私は異議なく承知した。老人は気が早い。彼は満足気に私の手を堅く握って、
「家の晩餐は七時だから、それ迄に引移ってくるがいい」といった。
ガスケル老人との会見は三十分程で済んだ。
私は広い街路を夕陽を一杯に浴びながら、下宿へ帰った。地下室の家族の食堂へ下りていって、揉手をしながら立っている内儀さんに、私はこんな意味の事をいった。――詮《つま》り、これから自活する決心で今晩から某家へ雇われる事になった。永く辛抱が出来ればいいが、未来の事は誰にも判らない。不良《わ》るかったら
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