ては、私には現世に何のひきつけるものはない。おこの沙汰ではあるが、私は奇《あや》しきまでに女の美しい姿に引つけられた。私はどうしても彼女を尋ね出そうと堅く決心した。
夜中に一度目を覚した。戸外にはいつか風が出て裏庭の木立を騒がせていた。私は枕をかえして寝返りをした時、墓穴のように静まりかえった階下で、誰かが咳をするのをきいた。続いて床を歩く人の跫音がした。マッチを摺って枕元の時計を見ると午前一時である。私は床の上へ起上って耳を欹《そばだ》てた。私はそっと部屋の外へ出て、階段の上から下を覗いた。寸時|歇《や》んでいた跫音がまた聞えてきた。怪しい物音に釣込まれて、私は怖々ながら一番下の廊下まで下りた。跫音は確に老人の居間から起った。老人の居間の扉の上のガラス戸に室内の電灯が明るく映っていた。夜前の雇婆さんの話によると老人は身体の工合が悪くて臥ている筈である。それを斯うした遅い時間に、而も歩行の不自由な※[#「やまいだれ+発」、348−1]疾者《インバリット》が起きて歩いているとすれば啻事《ただごと》でない。
「盗賊かな、それとも医者かな」私は念の為に老人の居間を検めて見ようと思ったが、この家に雇われた時の約束を思出して躊躇した。それっきり、跫音も咳《しわぶき》もパッタリ歇んでしまったので、思返して部屋へ戻って、毛布の中へ潜込んでしまった。
六
翌日は朝から陰鬱な雨が降っている。雇婆さんが朝飯を食卓に乗せて私の寝室へ運んできた。
「旦那様はまだお加減が悪いので、食堂へはおでになりませんから、貴殿はここで召上って下さい」
「そんなに悪いのですか。昨夜は遅くまで起きていらっしったようですが、医者でも来ていたのですか」
「医者などは来る筈はありません。御主人は医者が酷くお嫌いなのです。昨日は日が暮れると、じきにお臥寝《やすみ》になってしまいましたよ」
婆さんは私が夢でも見たのだろうというような顔付をして、卓子の上へ食事をおくと、さっさ[#「さっさ」に傍点]と部屋を出て去った。
どう考えてもこの婆さんは単なる普通の雇人ではなかった。私はこの家へ来て以来、幾度となくこの老婦人と顔を合せたが、老婦人と主人のガスケル氏が話をしているのを一度だって見掛けた事はなかった。それでいて婆さんはいつも老主人の意志を私に伝えている。その日も食事を済してから主人の病気を見
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