。新聞紙は男のもってきたもので、この家のものでない事はポケット大に折り畳んだ折目がついているので直ぐ判った。題字わきの余白に鉛筆で El 32[#「32」は縦中横]と記してあるのは、El は町名の頭字で、数字は家の番地である。即ち Elizabeth Street 三十二番に相違ないが、私の知っているだけでも倫敦にエリザベス街と名のつく町が二つある。倫教案内でも見れば、その他にも多くのエリザベス街があるかも知れぬ。この鉛筆の文字は新聞の取次店がそれぞれ配達前に覚書をしておくものである。私は後日何かの必要の場合を思って新聞紙もポケットに押込んだ。
ストランド街の露路の殺人事件に就てこの男はなくてはならぬ重要な関係者である。卒直に私の心持をいえばこの男こそ最も有力な嫌疑者であらねばならぬ。そう思っている心のすぐ奥に、彼の令嬢のもっていた緋房が現場に落ちていた事を思浮べた。彼の令嬢を付狙っていて殺された男、その加害者? の肥満《ふと》った男、その男に魔睡薬を用いて逃去ったあの令嬢と老婦人、そう考えてくると私には薩張《さっぱ》り訳が分らなくなる。私は昏睡状態にある男が、今にも覚めはせぬかと気遣いながらも、短時間に出来るだけの事実を知って置こうと思った。実のことをいうと、私はその男に就いてより、令嬢の身の上を知る事に時間の大部分を費したのであるが、そういう方面に才能のない私の如き素人には、何等手懸りとなるらしいものを発見し得なかった。そのうちに私は誰もいない家に、それも初めてまぐれ込んできた不思議な家で、万一|斯《こ》うした事件にかかり合うような事があっては大変だと思った。私は誰にも見咎られずにそっと一〇一番の家を出た。往来には数人の男が通っていた計りであったが、気のせいか、向い側の葉の涸落ちた行路樹の陰を歩いていた男が自分を見張っていたように思われてならない。賑かなピカデレー街へ出た。それから裏通りを引返してボンド街へ出ると、先前の男は既う見えなかった。
ボンド街のギャラリイでは絵画の展覧会をやっている。閉場後で鉄柵に広告ビラが立てかけてあった。私は酒場の角を曲って暗い横町へ入った。三人ほどの男が並んで酒場を出てきたが、そのうちの一人は私の姿を見て急に足をとめた。いよいよ本ものの探偵だなと私の胸は早鐘を衝くように鳴出した。私は暗い道を一目散に逃げた。そして首尾よく公園前
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