五時半には僅に数分を余すのみであった。睡っている間も、ベーカー街一〇一番を忘れなかった私は、美しい幻を趁《お》いながら、仕度もそこそこに家を飛出した。
 附近の停車場前の溜場からタクシーに乗って一〇一番の家の前で下りると、重い扉の前に立って躊躇しながら呼鈴を押した。二分――三分と時が異様に過ぎていったが、何とも応えはなかった。極りの悪いような心持と、軽い不安が私の胸に覆いかかってきた。もしこうした事が運命なら、この重い扉は永久に開かれなくともよいなどと思ったが、それは只思っただけで、私の手はスッと延びて扉の中央についている金具をコツコツと叩いてしまった。
 扉の内側が急にざわざわして、廊下を往ったり、来たりする絹ずれの音が聞えてきた。誰かが声を潜《ひそ》めて何事か話合っている。間もなくそれ等の物音はパッタリと歇《や》んでしまった。私は石段の上でマゴマゴしているうちに、扉を細目にあけて、その隙間から顔を出したのは先前の老婦人であった。彼女は酷く狼狽《あわ》てているらしかったが、私を見るといくらか安心したらしく、
「よくいらっしゃいました。さアどうぞお入り下さい」と裏庭に面した書斎へ導いた。
「このような火もないところへお通しして済みませんが、お客間が片付くまで、書物でもご覧になっていて下さい」
「有難う、どうぞ、御ゆっくり」
「お嬢様はすぐお目にかかりますから、暫時お待ち下さいまし」老婦人は部屋を閉めて出て去《い》った。
 本棚の横手には頑丈なマホガニーの卓子があって、その上に緑色の敷布のかかった電灯が置いてある。暖炉は滅多に使用った事はないと見えて、真鍮の金具が燦然と輝いている。飾棚の置時計の横に新刊の小説本などが積んであった。何気なしに時計の面を見ると、針が四時半を指している。私は喫驚して自分の懐中時計と較べ合せた。自分のも矢張り四時半になっている。何の事だ。私は仮睡《うたたね》から覚めて飛起きた時、周章《あわ》てて時計を見誤って約束の五時半より一時間早くこの家を訪問した次第である。何という粗忽者《そこつもの》であろう。時間を生帖面に守る英国人の家へ来て、それも初めての訪問に一時間も早く来てしまった事は恐縮の至りである。成程客間の片付かないのも、老婦人の周章てたのも無理はない。私は甚だ間の悪さを感じた。それでゆっくり腰を据えて、その埋合せに幾時間でも待つ気になった
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