人が立っている。
「いつぞや、サボイの食堂でお目にかかりましたね。あの時のお方でしょう」と彼女は微笑いながらいった。
「エエ、私です。あの節は失礼いたしました」
「どう致しまして……ホホホ……貴郎《あなた》が失礼をなすったのは、たった今でしょう。貴郎は銀行の前から、わざわざ私共を尾行けていらっしてね。何という物好きな方でしょうと、お嬢様と二人でお噂をしていたのですよ」老婦人は相変らず片頬に微笑を浮べながらいった。
「申訳ありません。実はご推察の通りです。銀行で貴女をお見掛けしましたので、若しやお嬢様と御一緒ではないかと思い、せめてお住居だけでもと存じましたのです」
「まア御熱心ですのね。お嬢様は東洋の美術品に大層興味を持っていらっしゃるので、日本の紳士とお近付になるのをお喜びですの。毎日午後はお宅にいらっしゃるから、いつでもお話しにいらっしゃいませ。そうそう他にお約束がありませんでしたら、今夕五時半のお茶にいらっしゃったら如何?」
「今夕の五時半に私がお嬢様をお訪ねしてもよろしいと仰有るのですか」思掛けぬ老婦人の言葉に私は、自分の耳を疑う程であった。
「お待ち申しております」と老婦人はいった。
 何という奇蹟のような機会であろう。余りによすぎる話に先方の意《こころ》を計りかねて、しばらく躊躇したが、結局厚かましく招待に応ずる事にした。
 後刻を期して老婦人に別れた私は、限りない歓喜にうなだれ[#「うなだれ」に傍点]ながら、何処をどう通ったか、殆んど夢心地にグレー街へ帰りついた。五時半、五時半には何事があろうというのか。

        五

 銀行前で見掛けた例の見窄らしい老人は、何の為に不自由な体躯であんなところにいたのか、怪しむべき限りであるが、異様な喜悦に魅せられている私の胸に、チラと疑惑の白い雲を投げただけで、そのまま消えてしまった。
 グレー街の三階の部屋へ戻った時には、まだガラス窓に黄色い薄日が漣波《さざなみ》のように慄えていた。広い家の中はカタリともせず真夜中のように寂《しず》かであった。私は暖炉の前の長椅子に身を投げて、石炭の燃える快い音をきいているうちに、いつかグッスリと睡入ってしまった。
 夫から何時間|経過《た》ったか、眼を覚した時は部屋の中はすっかり昏くなって、窓の外に白っぽい霧が濛々と立罩めていた。私は周章てて机の上の時計を見ると、約束の
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