までゆくと、戸口を指さしてクルリと引返していった。
婆さんの姿が廊下の曲り角に消えてしまうまで私は後を見送っていたが、詮方なく教えられた戸を軽く叩くと、内から返事があった。
細長い大きな部屋の一隅にホロホロと暖炉《ストーブ》を焚いて深い凭《より》椅子に埋まっていた老人は、私を見ると杖を挙げて、
「もっとこっちへ来るがいい。儂はこの通りの※[#「やまいだれ+発」、335−9]疾者でな。立って歩く事が出来ない」見た様子の割に若々しい声でいった。私はいわれるままに側へ寄って、自分を名乗った。
「儂の世話はアグネスという女中が見てくれるので、君の暇は充分ある。君の手紙には希望条件はないとあったが、ない事はあるまい。一年の給料は?」
「実は私はまだ給料というものを他人から貰った事がありませんし、それに私の仕事の性質も伺っていないので見当がつかないのです」
「よろしい。では給料の点は儂に任《まか》しておくがいい、それから君は何日何時でも旅行に出られるだろうね。儂が新聞広告で係累《けいるい》のない人間を求めたのはそうした理由だよ」
「すぐ其場から、何処へでも飛出してゆけます。然し私の仕事は?」
「仕事などは誰にでも出来る事だから、心配せんでもよろしい。ところで儂の方に条件があるが、それを聞いた上で返事をして貰わねばならぬ。
第一は儂の命令がない限り、如何なる用事があろうとも絶対にこの部屋へ入る事はならぬ。
第二は夜間九時以後は庭先を歩かぬ事。儂は寝付が不良《わる》くって困っておるのでな、夜分庭先などを歩かれると、気になって仕方がないのだよ」老人は微笑いながら更に言葉を続けて、
「それから飯田保次という君の姓だがね、呼び悪《にく》いからヒギンスと名乗って貰いたい」そのような他愛のない条件なら、何でもない。私は異議なく承知した。老人は気が早い。彼は満足気に私の手を堅く握って、
「家の晩餐は七時だから、それ迄に引移ってくるがいい」といった。
ガスケル老人との会見は三十分程で済んだ。
私は広い街路を夕陽を一杯に浴びながら、下宿へ帰った。地下室の家族の食堂へ下りていって、揉手をしながら立っている内儀さんに、私はこんな意味の事をいった。――詮《つま》り、これから自活する決心で今晩から某家へ雇われる事になった。永く辛抱が出来ればいいが、未来の事は誰にも判らない。不良《わ》るかったら
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