う事である。中には無論「彼女」という文字も、「緋房」という文字もなかった。
 私は停車場の前通りの店で粗末な食事を済すと、西へ廻った緯日《よこひ》の黄色くさしている敷石の上を戻っていった。
 遊園地の鉄柵にはもう老人の姿は見えなかった。無論私の落した緋房などはなかった。
 其晩、私はじっと下宿に落着いている事が出来なかった。夜食を済せるとフラフラと殺人のあったストランドを廻り歩いて夜更けて宿へ帰った。
 翌日も、翌日も、私は恐ろしいその夜の出来事計り考えていたが、それでも職業紹介所へ行ったり、新聞社へ寄って求職の広告を出したりした。職業紹介所ではホテルの皿洗いの口と、郊外の某家の下男の口と、倫敦から三十|哩《マイル》程離れた華族の別荘の犬ボーイの口があった。最後の口がよさそうなので、こちらは日本人の事であるから、一応手紙で照会して貰う事にした。紹介所を出ると、二三日前遊園地のわきで緋房を踏み隠した老人が扉口に凭りかかっていたが、私を見て叮嚀に挨拶をした。
「こんな遠くまで来ているのかね」
「ヘイ、いいお天気で誠に結構でございます。ヘッヘッヘ」老人は頓珍漢な挨拶をして愛想笑いをした。
 三日目の新聞にも、ストランドの路上の殺人事件に就ては、一行の後報もなかった。柏が私が何をしているかと思って覗きに来たのはその晩であった。
「どうだ職業は見付かりそうかね」
「犬ボーイの口がある。先方から返事のあり次第直ぐ出掛ける事になっている」
「犬ボーイとは恐入ったね。その決心はいいとして、ここにこんな広告が出ている」柏はポケットから新聞を引出して広告欄を指差した。


[#ここから罫囲み]
[#ここから2段組]
求秘書[#「求秘書」は3段階大きな文字]
[#改段]
東洋の人情風俗に精通せる、係累《けいるい》なき青年紳士を求む、当方住込、
履歴書を添え申出られたし。(姓名在社三六〇号)
[#ここで段組、罫囲み終わり]


「結構な話だが、競争者が多いだろうし、それにこっちは日本人ときているから、先ず採用される見込はないね」私は気の乗ない返事をした。
「そんな心掛けだからいけない。注文通り係累はないし、東洋の事情には通じ過ぎているじゃアないか。物は試しだ。兎に角手紙を出して当って見るがいい」柏は熱心にいった。この男は自分のいいと思った事は、何事に拘らず他人に強いる癖がある。無下に断れば
前へ 次へ
全33ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
松本 泰 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング