薄光が、壁の石版画の額縁にさしていた。私は床の上へ起上って煙草を吸ったが、無数の縄を後頭部にくくりつけられているようで、ボンヤリと昨夜の夢を追っていた。
「昨夜の事件は何だろう」私はハッキリ、暗い露路の中で仰向けに仆れていた男の姿を思い浮べた。誰があの男を殺したのだろう、只の一突きで心臓をやられている。あれだけの事をやるには余程の力と、胆力がなくてはならぬ。そして不意に露路を飛出してきたあの時の彼女の慌て方、それから現場に落ちていた緋房、それは何事を語るものだろう。……でも私はあの高貴な、美しい顔を考えると、どうしても彼女を疑う気にはなれなかった。
 時計を見ると、十二時を過ぎている。扉の外においてある水差の湯は冷くなっていた。私は苦笑しながら手早く衣物を着換えて戸外へ出た。
 日曜の事であるから職業紹介所へいっても休みである。私は先ず停車場へいって新聞を買い、簡単に食事でもして来ようと思った。酒場の前を曲って遊園地の横手へ出ると、擦り切れた箒子《ほうき》を傍に立かけて、呆乎《ぼんやり》鉄柵に凭りかかっていた見|窄《すぼ》らしい様子をした老人が、
「旦那様、今日は」と叮嚀に挨拶をした。それはいっつもこの界隈を根城にして、通りかかりの人々から合力を受けている見知越の男である。これ迄も私は特別不機嫌な時を除いて、顔を見る度に一つ二つの銅貨を遣っていたものだ。その日も私は立止って無意識にポケットへ手を入れた。昨夜の中に消費果してしまう筈の金が、まだ幾許か残っていたので、どうせ貧乏になりついでだと思って、掴出した貨幣を老人の古帽子の中へ投入れてやった。その時、指先にからまって出てきた緋房がバサリと敷石の上へ落ちた。
「これは……」と思う間に老人は故意か偶然か、大きな破れ靴の下に緋房を踏かくしてしまった。私は鳥渡当惑して、取返したものか、それとも其儘にしたものか、思案に迷った。要するに私は気負けがしたのである。靴の下の緋房を問題にして騒ぎ立てるのは後日に面倒を惹起する基となりはせぬかというような弁疏《いいわけ》を考えて、後に心を残しながら、老人の傍を離れた。
 私はV停車場の構内で、新聞の正午版を買った。社会欄の下段に前夜ストランドの裏小路に起った殺人事件の顛末が掲げてあった。私は息も吐かず、その記事を読終ると、安堵の思いをした。被害者は旅廻りの伊太利曲芸団のひとりであるとい
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