? 絶体絶命だのなんだなのって、それはいったい何のことです?」
「まったく、あり得べからざることなのです。けれども、事実は迫ってきているのです。このままでいたら、わたしは数日中に殺されてしまうでしょう」
 わたしは口もとに込み上げてくる微笑を抑えてベンチに腰を下ろし、まず煙草《たばこ》を取り出した。だが青年の思い迫ったような顔つきに、わたしの微笑は消えてしまった。
「わたしども夫婦はカナダから当地へ来て、ある有力な日本人の家に厄介になっておりますが、わたしの妻は現在わたしどもの世話になっている主人に奪《と》られそうになっているのです。わたしには厳重な監視がついているのです。あれを見てください、あれはその男の手下で、わたしがなんにもできないように見張っているのです」
 遠くの公園の入口のところに、鳥打帽を被《かぶ》った二人の日本人が立ち話をしていたが、急にわたしたちのいるほうに進んできた。
「ああ、いけない! こっちへやって来ます」
 青年は恐怖の色を浮かべて叫んだ。
「なぜきみは警察へなり、領事館なりへ行かないのだね?」
「警察? そんなことをすれば、石段を上らないうちに拳銃《けんじゅう》でやられてしまいます」
「では、そんな危険な家を出てしまって、シカゴなりニューヨークなり安全な土地へ逃げたらどうです」
「夫婦で逃げるなんていうことはとうていできません。わたし一人逃げたら、あとに残った妻の運命はその日のうちに決まってしまいます。……お願いです、なんとかしてわたしどもを助けていただくことはできないでしょうか?」
「よろしい、わたしにできるだけのことをしましょう。それには、充分にきみの話を聞かなくてはならない」
 わたしはその時、全身に少年のころの向こう見ずな血が湧《わ》き起こってくるのを覚えた。
 鳥打帽の日本人が来るのをその場で便々と待つまでもなく、こっちから進んでいって相手に直面しようとわたしは考えた。
「ありがとう存じます。詳しい話を聞いていただかなければなりませんが、あの男たちに油断をさせるために、いまはここをお別れしておくほうが好都合なのです」
 と、青年は訴えるように言った。
「分かった、わたしはP街の柳ホテルに泊まっている川瀬《かわせ》という者だから、きみの都合のいいときにいつでもやって来たまえ」
「では、今晩九時に伺わせていただきましょう」
 わたし
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