たのを見究めてから、密に男の室へ入って見た。直ぐ目についたのは、牀《ゆか》の上に投出してあるトランクと手提鞄である。それには孰《いず》れもT・Cと姓名の頭文字が記してあった。彼はトランクの上の頭文字をじっと凝視めているうちに、トーマス・コルトンという、昔の恋敵の名を思出してきた。そうだ、そのコルトンだと林は心の中に叫んだ。もっとも彼は後にも先にも、一度しかその男と顔を合した事はなかった。而もそれは二十年以前チャタムの町で、エリスがひとりの男と一緒に歩いていた時の事であった。その男がコルトンであると、彼は後から聞されたのだ。
フト廊下に跫音《あしおと》がしたので、林はハッとしたが、どうする事も出来ずに、其儘部屋に続いた奥の寝室《ベッドルーム》へ隠れた。彼は寝台の下で息を殺していると、跫音は部屋の前で止って、ツカツカと誰かが表部屋へ入ってきた。幸いにも数分の後に、跫音は廊下の外へ消えてしまった。
林は危い思をしてようやく自室へ戻った。彼はつづいて戸外へ出たが、コルトンの姿は何処にも見えなかった。彼は物思いに沈みながら、歩調を緩《ゆる》めてブラブラと歩いているうちに、いつかクロムウェル街のエリスの家の前へ出てしまった。時計を見ると、九時を大分過ぎていたので、旅館へ引返した。
コルトンはもう部屋へ戻っていた。霎時コトコトと牀の上を歩いているような物音がしていたが、それきり音は歇《や》んで、其儘夜が明けた。
翌日コルトンは一足も外出しないで、昼まで部屋に引籠っていた。給仕を呼んで昼食をも自室に運ぶように命じているらしかったが。
林はその頃チャタムでコルトンが勤めていた製薬会社の名を記憶《おぼ》えていた。それでフト思いついて、チャタムの製薬会社を訪ねて彼の其後の様子を調べて見ようと考えた。
林は早速《さっそく》汽車に乗って。チャタムへ赴いた。製薬会社へいっていろいろ問合せて見たが、何分にも年月を経ているので、予期《おも》っていた程の収獲を得る事は出来なかった。その帰途にフェインチャーチ停車場で下車して二三の汽船会社へ寄って最近に着いた便船の船客名簿を見せて貰った。其結果トーマス・コルトンと名乗る男は蘭《らん》領スマトラから乗船して、二週間前に倫敦へ着いた事を知った。
林が町で夜食をしてから旅館へ帰ると、微かな唸声が隣室に聞えていた。コルトンがまだ戻っていない事は帳場で確めてある。林は不思議に思って念の為に百二十八号室の扉を叩いてから部屋へ入り、思掛けずにビアトレスを救出す事が出来た。彼はビアトレスを護ってクロムウェル街へ赴いた。そしてコルトンからエリスへ宛てた強迫手紙を読んで、直にパラメントヒルへ馳付けたのである。彼は幾許《いくらか》の金をやってコルトンを外国へ追遣《おいや》り、エリスを救う所存であった。
林がパラメントヒルに着いたのは九時五分過であった。彼は暗い小径を左へ折曲って、コルトンとエリスの姿を探し求めているうちに、たちまち側近くに拳銃の音を聞いた。彼は音のした方へ馳寄ると、薄《ぼんや》りとした夜霧の中を走ってゆくエリスの後姿が影絵のように見えた。彼はある怖ろしい予感に脅かされながら、疎《まばら》な木立を背景《バック》にした共同椅子の前へ出ると、コルトンが草の上へ俯せになって仆《たお》れていた。其辺にはまだ火薬の臭が漂っていた。林は確にエリスがやったのだと思った。突嗟《とっさ》の場合にも、彼はどうかしてこの犯罪を隠蔽して、哀れなエリスを救わねばならぬと焦った。彼は間もなく其処を離れて丘の下まできたところを、銃声を聞いて馳付けた警官の手に押えられてしまったのである。彼は殺人犯の有力な嫌疑者として直に所轄のH警察へ引致され、係官の厳重な取調べを受けた。
「そのうちに現場附近から、兇器の拳銃が発見される。コルトンの身許も判明し、ベースウォーター街に自宅を持ちながら、私が態々《わざわざ》パーク旅館の而も被害者の隣室に投宿したという件も知れて来て、私に対する嫌疑がいよいよ深くなっていったのです。それで仕舞には面倒になって、自分から殺人罪を承認してしまったのですよ。然し、有難い事に不思議な女が飛出して来た為に、私の無罪が判明してこの通り放免になったのです」と林は長い談話を結んだ。彼は身に覚えのない殺人罪を何故承認したのであるか。恐らく彼はエリスの名が、心ない世人の口の端《は》に上るのを虞《おそ》れて、自ら罪を引受けてしまったものと思われるが、林はエリス母子と坂口を前にして、その点に関する説明を避け極めて簡略に、且つ無造作に、かたづけてしまった。
コックス家と林家の人々は翌朝の新聞紙によって、その怪しい女は曾《かつ》てトーマス・コルトンの情婦であった事を知った。その二人は数年間スマトラ地方で同棲していたが、其後コルトンは女
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