》たものとすれば、被害者が倒れると共にそのまま遁走するのが自然である。然るにステッキをついて、悠々と死骸の傍に立っていたという事実は、他の何者かが拳銃を発射した後、伯父はその音を聞付けて、現場に至ったものであるという事を明白に語るものであるといった。
 然しながら彼の切角の言証も、伯父が射殺したものでないという積極的な反証の出ない限り、何の効果も来す事は出来なかった。
 係官は冷かに笑って取合わなかった。夜は更けてから、彼は一|先《ま》ず放還された。

        六

 灰を被ったような古いクロムウェル街の家並は、荒廃《あれ》きって、且つ蜿々《えんえん》と長く続いている。甃石《しきいし》の亀裂《さけ》ている個所もあり、玄関へ上る石段の磨滅《すりへ》っている家もあったが、何処の家にも前世紀の厳めしいポーチと、昔の記憶を塗込めた太い円柱《まるばしら》があった。岩丈な樫の扉は深緑色褐色と、幾度か塗替えられたが、扉の中央に取付けられた鋳物の獅子の首と、その下に垂下った撞金《たたきかね》は、昔も今も変らず云合したように手ずれがして黒く光っていた。
 その一本通りの中程に、コックス家があった。坂口とビアトレスは往来に面した階下の居間で心配そうに顔を突合わせていた。
 戸外には初夏の穏やかな太陽が街を明るくしている。それだけ閉切った部屋は暗く陰気であった。エリスは坂口がコックス家へ来る前から、H警察署へ召喚されてまだ帰って来なかった。
「殺された男というのは、貴女をパーク旅館に監禁した怪しい人間と同じです。一体その男とお母さんとはどういうお知合なのでしょう。そして私の伯父もその男を知っているのでしょうか」しばらく沈黙の後で坂口がいった。
「私もよくは存じませんけれど、母さんの昔の友達であったという事です。何でも母さんを酷い目に合わせておいて、外国へ遁《に》げてしまったとかいう事を聞きました」ビアトレスは母の痛ましい古傷に触れるのを耐えられないようにいった。
「私も恐らくそのような事ではないかと思っていたのです。その事を伯父は知っているでしょうか」
「小父さんがチャタムにいらしったのは、その前後であるという事ですから、薄々は御存知かも知れませんが……小父さんとその男が顔を合せた事はなかったと母さんが仰有っていました」
「でも伯父はどうして貴女がパーク旅館に監禁されていた事を知ったのでしょう。伯父がいつになく旅行するといって前の晩から家へ帰らなかったのも不思議です」
 二人は言葉を止めて、各自別々の事を慮《かんが》え初めた。
 坂口は伯父の日頃の気質から、彼が恐ろしい殺人罪を犯したとはどうしても信じられなかった。永く外国の生活をしている程の伯父であるから、或は拳銃《ピストル》の一挺位は所持《も》っていたかも知れないが、それにしてもついぞ伯父の拳銃を見た事はない。……けれども又一方に、伯父が今日まで独身生活を続けているその理由を段々解して来たように思った。……伯父はエリスを愛している。世界中の誰よりもエリスを愛している。愛するものの為ならば、人間はどのような犠牲をも払う事が出来る……彼はそう思って慄然とした。ビアトレスはブラウスの襟に顎を埋めて、呆然《ぼんやり》と、足下の床に視線を落していた。彼女は別の世界に引込まれて行くような、頼りない心持になっていた。何かなしに、警察へいったきり母親はもう帰って来ないように考えられてならなかった。彼女は慌ててそれを打消そうと努めたが、払っても、払っても、次から次に浮んでくる不吉な幻影が一層彼女の心を重くした。そして今朝母親が家を出て行った時の悲しげな眼眸《まなざし》が、いつまでも目先にチラついているのであった。
 ビアトレスは母親が林に対して抱いている心持を知っていた。そして母親が殺された其男を呪い、醜い記憶を持った間柄をどんなに秘《かく》していたかを知っていた。
 坂口とビアトレスはフト目を見合せたが、二人は窓の外に眼を背《そら》してしまった。
 クッキリと黄色い光線を浴《あ》びている甃石の上は、日蔭よりも淋しかった。青空も、往来も、向う側の家々も、黒眼鏡を通して見るように明瞭《はっきり》として、荒廃《さび》れて見えた。
 間もなくエリスが死人のような顔色をして入って来た。
「ああ、既《も》う駄目です。すべてが終りです」エリスは力なく椅子に着いてさめざめと泣いた。
「小母さん、伯父はどうなりました」坂口は急込《せきこ》んで訊ねた。
「林さんにお目に掛る事は許されませんでしたが、林さんはすっかり自白して罪を承認したいという事です」エリスは泣※[#「口+厄」、第4水準2−3−72]《なきじゃく》りをしながらいった。
「真実ですか、……然し私にはどうしても信じられません、……それで兇器はどうしました」
「拳
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