いた。ビアトレスと坂口は言葉もなく、その傍に佇んだ。
 ビアトレスは劬《いたわ》るように母親の肩を撫でていた。
「本統に私はどうしたらいいか、少しも分らない。……何も彼もみんな私が悪かったのですよ」霎時してエリスは絶入るような低い声で云った。
「ビアトレスさんがパーク旅館に監禁された事といい、昨晩旅行に出掛けた筈の伯父が、貴女の後を追ってパラメントヒルへ出掛けた事といい、私には何が何だか薩張《さっぱ》り了解《わか》りません」と坂口がいった。
「昨夜から旅行しているのですって? 林さんは何処に居ります」エリスは泣膨らした眼を上げて訊ねた。
「彼処《あすこ》から私は直ぐ、家へ戻って見ましたが、伯父はまだ帰宅して居りませんでした」
「では貴郎もあの事を御存知ですか」エリスは怖ろし気に手巾《ハンカチ》で顔を覆った。
「エエ、私は伯父が死骸の傍に立っているのを見ました。……然し殺された男は一体何者でしょう。無論パーク旅館で貴女を監禁した男と思いますが……」と坂口は嗄《しわが》れたような声でいった。
 ビアトレスは手を挙げて坂口を制しながら、「そんな事はどうでもいいわ。……それより林小父さんはどうしたでしょう。何故早く帰っていらっしゃらないでしょう」と穏かにいった。
 エリスは何事をか云おうとしたが、悲しげな様子をして口を噤《つぐ》んでしまった。
 たちまち、玄関の呼鈴が鳴った。三人は思わず顔を見合せて、誰一人席を立つものはなかった。第二の呼鈴が続いて起った時、坂口は思切ったように立上って玄関へ出ていった。
 扉を開けると、平服を着た二人の男がヌッと家の中へ入ってきた。彼等は無遠慮に自ら背後の扉を閉めた。
「貴郎はベースウオーター街二十番地に住んで居らるる林という方の甥御さんで、坂口さんと仰有る方ですね」一人の男が口を切った。坂口は黙って点首《うなず》いた。
 その間に、もう一人の男は頻りに居間の扉を叩いた。すると部屋の中からスックリとビアトレスが現われた。
「貴郎方は何者です。断りもなく他人の家へ入って来て失礼ではありませんか」彼女は厳しい言葉で慎《たしな》めるようにいった。
 二人の男は急いで冠っていた帽子を脱ると、叮嚀《ていねい》な言葉で、
「夜分に飛んだお騒がせを致しまして誠に申訳ありません。仰有る通り、少々失礼には違いありませんが、職掌柄でございますので、どうぞ御寛大にお許し下さいまし」と先に立った男がいった。彼は更に言葉を続けた。
「貴女が御当家のお嬢様でいらっしゃいますか。実は一時間半程前に、パラメントヒルで殺人がありましたのです。それに就きましてここにいる坂口という青年を取調べる必要があったものですから、所々を訪ねた結果、こちらへ上った訳なのでございます」
「坂口さんは私共のお友達で、そのような恐ろしい殺人などに、関係のある方ではありません」
「成程左様かも知れません。坂口さんがお宅の友達である以上は、林さんと御親交のある事は無論の事ですな。どの点までのお知合いであるか、一応奥様にお目に掛ってお話を伺いたいと存じますが、如何でしょう」男は如才なくいった。
「母は加減が悪いので、今夜はお会わせする事は出来ません」ビアトレスは不興気に云った。
「いつ頃からお加減が悪いのですか。御様子を見ますと、お取込があるように存じますが」
 ビアトレスはそれには答えず、相手の顔を視返した。
「イヤ、どうも飛んだ失礼を致しました」男は坂口を振向いて、
「君、御苦労だが警察署まで一緒に来てくれ給え。君の伯父さんが現場から引致《いんち》されたものだからね、つい君にも余波《とばしり》がきた訳さ」と聞えよがしに大声でいった。
「まア、林小父さんが捕まったのですか?」とビアトレスは思わず叫んだ。
「その通りです。それに就てお宅とは日頃の御関係もありますから、改めて相当の手続を履んでお伺いする事に致しましょう。甚だお気毒ですが、明日は一歩も外出なさらないように予《あらかじ》め申置いておきます」
 二人の刑事は意味有気な薄笑いを浮べながら、悪叮嚀に挨拶をして、坂口を引立てていった。
 H警察署の薄ら寒い一室で、坂口は係官の取調べを受けた。パラメントヒルで、何者にか射殺されたのは、立派な服装をした五十四五の男であった。
 彼は最初何事を訊ねられても頑強に知らぬ一点張りで通して見た。然し、それは却って伯父の嫌疑を深くして彼を死地に陥れるものである事を知った。坂口は伯父を全然、無罪とは信じていなかったが、尚そこに二分の疑念が残っていた。それで仕舞には考直して彼の知っているだけを語った。
 そして彼はパラメントヒルで、死骸の傍に立っていた伯父を見たという件は、寧ろ伯父の加害者でないという事実を立証するものであると力説した。即ち仮に伯父が拳銃《ピストル》を発射《うっ
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