三人の話題は一しきりその女のことに及んだが、エリスは話題を変えて、二三日姿を見せぬ伯父の消息を訊ねたり、倫敦の生活は好きかなどときいた。
 伯父はコックス家より他に、訪ねる友達を持っていないことを、坂口はよく知っていた。それ故、今頃伯父は何処で、何をしているのかといささか気になってきた。
 坂口がコックス家を辞して家へ帰ったのは十時近かった。重い玄関の扉を開けて、しんとしたホールを通ってゆくと、伯父の書斎に電燈が点いていた。彼は、
「オヤ、既《も》うお帰宅《かえ》りになったな」と思いながら、軽く扉を叩いたが、一向応答がない。そこで恐る恐る扉を開けて、中を覗いてみた。
 部屋はきちんと整理《かたづ》いて、明るい電燈が空しく四辺を照らしている。伯父の姿は何処にも見当らなかった。
「先刻家を出るときは、確に電燈が点いていなかったから、私の不在の間に、一ぺんお帰りになったと見える」彼は念のためにホールの鏡の前にいって、平常のステッキと、帽子の置いてないのを確めてから、伯父の書斎へ戻ってきた。
 フト気が付くと、卓子の上に坂口に宛てた伯父の手紙が置いてある。彼は胸騒ぎを覚えながら、手早く封を切って読下した。

 前略小生急用出来候ため、S地方へ旅行致すべく候。四五日は帰宅の程、覚束なく候えども、御心配御無用に御座候。尚小生今回の旅行は絶対に秘密を要するものに候間、左様お含み下され度候。
   順三郎どの  林

        二

 不可解な伯父の手紙を坂口は幾度も繰返した。インキの乾き加減や、電球の温度から考えても、伯父が家を出たのは僅々三十分も前の事と思われた。これからすぐ自動車で停車場へ馳付ければ、伯父に会う事が出来ると思ったが。伯父の気質を知っている彼は、そのような事をしたところで、叱られこそすれ、思立った伯父の旅行を引止め得るとは思わなかった。
 坂口は伯父の手紙に記された、急用、秘密、などという言葉を不思議に思った。伯父は別段商売に投資している訳でもなく、財産の幾部分を日本の営利会社の株券に換えて持っているだけで、財産全部は悉《ことごと》く銀行へ預入れてある。それ故商人に有勝ちな急用で、旅行云々などとは受取れぬ話である。殊に規律の正しい伯父が、旅行先を明記しないのも訝《おか》しい。のみならず他人とは交渉を持たない伯父の生活に、秘密のありよう筈はなかった。

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