らぬチャタムに住んでいた頃からの友達であった。
 エリスの良人は珍らしい日本人|贔負《びいき》であった。凡そ日本の汽船でテームス川を溯ったほどの船員は、誰一人としてコックス家を知らぬものはなかった。永い単調な航海の後で、初めて淋しい異郷の土を踏んだとき、門戸を開放し、両手を拡げて歓び迎えてくれるコックス家を、彼等はどんなに感謝したことであろう。
 彼等はよく招かれてコックス家の客となった。船員仲間はそこを「水夫の家」と呼んでいた。
 それは二昔も以前の事である。ある年「水夫の家」の父は突然病を得て倒れて了《しま》った。後に残った若く美しい母は、生れた計りの女の子を抱えて、しばらく其土地に暮していたが、そのうち屋敷を全部売払って、現在のクロムウェル街に住むようになったのである。
 坂口は伯父とエリスがどのような関係にあるのかは少しも知らない。永い間海員生活をしていた伯父は、若い頃から幾度となく、英国と日本の間を航海していたが、つい二三年前に汽船会社を辞して了った。そして世間を離れて少時東京の郊外に仮寓していたが、何を感じたか、飄然と倫敦へ移ってきたのである。
 多くも無い親戚ではあるが、同じ甥や姪のうちでも、伯父はとりわけ坂口を愛していた。そのような訳で、坂口は予《かね》てからの希望通り倫敦へ来て、伯父と一緒に住む事を許されたのである。
 坂口は曾つて伯父の笑った顔を見たことはなかったが、伯父は親切で優しかった。坂口はそれだけ伯父の生活が寂しく思われてならなかった。倫敦へ来て親しく伯父に接するにつけて、頼りない伯父の身を気遣い、他所ながら面倒を見ようという殊勝な心持を深めていった。
「事によると、エリスさんの家にいるかも知れない」街の角に差かかった時、坂口は独言を云ったが、急に顔が熱《ほて》って来るのを感じた。
 コックス家にはビアトレスという、美しい一人娘がある。坂口が倫敦へ着いて間もなく、伯父と共に晩餐に招ばれたのは、このビアトレスの家であった。従って彼が若い女性と言葉を交えたのは、彼女が始めてであった。
 鉄柵を繞《めぐ》らした方園《スクエア》の樹木が闇の中に黒々と浮上っている。傾きかかった路傍の街燈が、音をたてて燃えていた。坂口の歩いてゆく狭隘《せま》い行手の歩道は、凹凸が烈しかった。
 彼は方園《スクエア》を過ぎて、心もち弓なりになったクロムウェル街を、俯向
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