トやっていたが、廊下に面した扉に鍵の音をさせて、何処へか行って了った。
 旅館の中は依然として無人の境のように静かであった。稍々《やや》西に廻った太陽が、赤く窓の桟の上に光を落していた。
 ビアトレスは身動きも出来なかった。仮令《たとえ》彼女が死力を尽して猿轡を噛切り、縄を抜けたところで、男の残していった言葉が気になって、迂闊《うかつ》な事も出来ないように思われた。男の言葉はありふれた脅喝《おどかし》かも知れないが、どうやら彼の態度には真実を語っているらしい意味有りげな様子が見えていた。
 ビアトレスは眼を閉じて、軽卒にも知らぬ男の電話にかかって、此ような旅館へ監禁された不甲斐なさを、今更のように歯癢《はがゆ》く思った。

        四

 坂口はクロムウェル街を出て、V停車場を通りかかると、自動車から降りたエリスがあたふたと銀行の中へ入って行くのを見た。
 坂口はビアトレスの口から、エリスの此数日来の振舞を聞いていたのと、そそくさと銀行へ入っていった様子が、如何にも訝《いぶか》しく思われたので、踵《きびす》を返して彼女の後に附随《つきしたが》った。
 エリスは五百|磅《ポンド》の金を引出すと、直に表へ出た。坂口は背後から声をかけたが、エリスは一向気が附かぬらしく、待たせてあった自動車に乗って疾走《はし》り去った。
 坂口は首を傾げながら、ベースウオーター街の自宅へ帰った。心待ちにしていた伯父からの手紙も来ていず、ブラインドを下したままの部屋は暗くて陰気であった。
 彼は窓に近い長椅子の上に横になって、ややもすると引入れられるような不安な心持を紛らす為に、積重ねた雑誌類を手当り次第に拾読していた。と、突然玄関の呼鈴《ベル》が鳴った。坂口は椅子から飛起きて扉を開けに行った。
 そこにはひどく周章《あわ》てた様子でエリスが立っていた。
「貴郎大変です。ビアトレスが何処かへ行って了《しま》いました。私がいま他所から帰りますと、女中に宛てた置手紙があって、それには私から電話がかかったので外出すると、書いてあるのです。私は決して娘に電話をかけたことはありません。吃度何者かに誘拐されたのです」
 坂口は顔色を変えて言葉もなくエリスの顔を視詰めた。
「林さんはいらっしゃいますか」とエリスは気忙しく訊ねた。
「イイエ、不在です。今朝早く何処かへ出掛けました。夜分には帰って来る
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