。静かな夏の夕暮、人気の絶えた奥穂高の頂きに腰を下している時、ジャンダルムの上に高く高く聳えていた雲は、この雲ではなかったか。そし今もまた、この雲があの穂高の上でひっそりと黙って湧き上っているのではないだろうか。
「山へ行きたい」、「穂高へ行きたい」。もう用件も何もあったものではない。すぐ家へ帰って、ルックを詰めて……。よほどのこと、私はそうしようかと思った。
だが母の顔、伯父の顔、弟や妹のこと等を思い浮かべると、そうすることはできなかった。
「俺は今山を想っているのではない。自分のかつて山で過した楽しかった日を懐しんでいるのだ。それに違いない、それに過ぎないのだ……」そう思って自分を見詰め返して見た。そしていくぶん落ちつきを取りもどした。
「自分は山を離れなくてはいけない。いつまでも山に執着することは自分を幸福にする途ではない」その後も、しばしばこうした事は起こった。しかしそのつどそれは抑えつけ、そして抑え付けることもできた。自分の本当の幸福ということのために……。だがこうして諦められると思った山が、所詮《しょせん》自分とはどうしても切り離すことのできない存在であることを、一方では
前へ
次へ
全4ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
松濤 明 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング