諧大要』に言水《ごんすい》の
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姨《うば》捨てん湯婆《たんぽ》に燗《かん》せ星月夜
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の句につきて「湯婆に燗せとは果して何のためにするにや」云々と有之《これあり》候、その湯婆につき思ひ当れるは、当地方にて銚子《ちょうし》の事をタンポと申候事にてお銚子持つて来いをタンポ持つて来いと申候、これにて思ふに言水の句も銚子の事をいへるにて作者の地方かまたは信州地方の方言を用ゐたるには非《あらざ》るかと存《ぞんじ》候云々
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この解正しからん。[#地から2字上げ](五月二十七日)
今は東京の小学校で子供を教へて居る人の話に、東京の子供は田舎の子供に比べると見聞の広い事は非常な者であるが何事をさせても田舎の子よりは鈍で不器用である、たとへば半紙で帳面を綴《と》ぢさせて見るに高等科の生徒でありながら殆ど満足に綴ぢ得る者はない。これには種々な原因もあらうが総ての事が発達して居る東京の事であるから百事それぞれの機関が備つて居て、田舎のやうに一人で何も彼もやるといふやうな仕組でないのもその一原因であらう、これは子供の事ではないが余は東京に来て東京の女が魚の料理を為し得ざるを見て驚いた、けれども東京では魚屋が魚の料理をする事になつて居るからそれで済んで行く、済んで行くから料理法は知らぬのである、云々との話であつた。道理のある話でよほど面白い。自分も田舎に住んだ年よりは東京に住んだ年の方が多くなつたので大分東京じみて来て田舎の事を忘れたが、なるほど考へて見ると田舎には何でも一家の内でやるから雅趣のあることが多い。洗濯は勿論、著物《きもの》も縫ふ、機《はた》も織る、糸も引く、明日は氏神《うじがみ》のお祭ぢやといふので女が出刃庖刀を荒砥《あらと》にかけて聊《いささ》か買ふてある鯛《たい》の鱗《うろこ》を引いたり腹綿《はらわた》をつかみ出したりする様は思ひ出して見るほど面白い。しかし田舎も段々東京化するから仕方がない。[#地から2字上げ](五月二十八日)
その先生のまたいふには、田舎の子供は男女に限らず唱歌とか体操とかいふ課をいやがるくせがあるに東京の子供は唱歌体操などを好む傾きがある、といふ事であつた。これらも実に善く都鄙《とひ》の特色をあらはして居る。東京の子は活溌でおてんばで陽気な事を好み田舎の子は陰気でおとなしくてはでな事をはづかしがるといふ反対の性質が既に萌芽《ほうが》を発して居る。かういふ風であるから大人に成つて後東京の者は愛嬌《あいきょう》があつてつき合ひやすくて何事にもさかしく気がきいて居るのに反して田舎の者は甚だどんくさいけれどしかし国家の大事とか一世の大事業といふ事になるとかへつて田舎の者に先鞭《せんべん》をつけられ東京ツ子はむなしくその後塵《こうじん》を望む事が多い。一得一失。[#地から2字上げ](五月二十九日)
東京に生れた女で四十にも成つて浅草の観音様を知らんといふのがある。嵐雪《らんせつ》の句に
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五十にて四谷を見たり花の春
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といふのがあるから嵐雪も五十で初めて四谷を見たのかも知れない。これも四十位になる東京の女に余が筍《たけのこ》の話をしたらその女は驚いて、筍が竹になるのですかと不思議さうにいふて居た。この女は筍も竹も知つて居たのだけれど二つの者が同じものであるといふ事を知らなかつたのである。しかしこの女らは無智文盲だから特にかうであると思ふ人も多いであらうが決してさういふわけではない。余が漱石《そうせき》と共に高等中学に居た頃漱石の内をおとづれた。漱石の内は牛込《うしごめ》の喜久井町《きくいちょう》で田圃《たんぼ》からは一丁か二丁しかへだたつてゐない処である。漱石は子供の時からそこに成長したのだ。余は漱石と二人田圃を散歩して早稲田《わせだ》から関口の方へ往たが大方六月頃の事であつたらう、そこらの水田に植ゑられたばかりの苗がそよいで居るのは誠に善い心持であつた。この時余が驚いた事は、漱石は、我々が平生《へいぜい》喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかつたといふ事である。都人士《とじんし》の菽麦《しゅくばく》を弁ぜざる事は往々この類である。もし都《みやこ》の人が一匹の人間にならうといふのはどうしても一度は鄙住居《ひなずまい》をせねばならぬ。[#地から2字上げ](五月三十日)
僅《わず》かにでた南京豆《なんきんまめ》の芽が豆をかぶつたままで鉢の中に五つばかり並んで居る。渾沌《こんとん》。[#地から2字上げ](五月三十一日)
ガラス玉に十二匹の金魚を入れて置いたら或る同じ朝に八匹一所に死んでしまつた。無惨。[#地から2字上げ](六月一日)
この頃|碧梧桐《へきごとう》の俳句一種の新調をなす。その中に「も」の字最も多く用ゐらる。たとへば
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桐の木に鳴く鶯《うぐいす》も[#「も」に白丸傍点]茶山かな 碧梧桐
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の類なり。その可否は姑《しばら》く舎《お》き、碧梧桐が一種自家の調をなすはさすがに碧梧桐たる所以《ゆえん》にして余はこの種の句を好まざるも好まざる故を以てこれを排斥せんとは思はず。しかるに俳人の中には何がな新奇を弄《ろう》し少しも流行におくれまじとする連中ありて早く既にこの「も」の字を摸せんとするはその敏捷《びんしょう》その軽薄実に驚くべきなり。近日ある人はがきをよこしていふ、前日投書したる句の中に
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いちご売る世辞《せじ》よき美女や峠茶屋
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とありしは「美女も[#「も」に白丸傍点]」の誤につき正し置く、一字といへどもおろそかにはなしがたき故わざわざ申し送る云々とあり。これ碧梧桐調を摸する者と覚えたり。碧梧桐調は専売特許の如き者いち早くこれを摸して世に誇らんとするは不徳義といはんか不見識といはんか況《ま》してその句が平々凡々「も」の一字によりて毫《ごう》も価を増さざるをや。一字といへどもおろそかにはなしがたきなどいふは老練の上にあるべし、まだ東西も知らぬ初学の上にては生意気にも片腹痛き言分といふべきなり。一字の助字《じょじ》「や」と「も」とがどう間違ひたりとて句の価にいくばくの差をも生ずる者にあらず、そんな出過ぎた考を起さうよりも先づ大体の趣向に今少し骨を折るべし。大体の趣向出来たらばその次は句作の上に前後錯雑の弊《へい》なきやう、言葉の並べ方即ち順序に注意すべし。かくして大体の句作出来たらばその次は肝心《かんじん》なる動詞形容詞等の善くこの句に適当し居るや否やを考へ見るべし。これだけに念を入れて考ふれば「てにをは」の如き助字はその間に自らきまる者なり。出鱈目《でたらめ》の趣向、出鱈目の句作にことさらに「も」の一字を添へて物めかしたるいやみ加減は少しひかへてもらひたき者にこそ。[#地から2字上げ](六月二日)
先日|牡丹《ぼたん》の俳句を募集したる時「ぼうたん」と四字に長くよみたる句の殆ど過半数を占めたるは実に意外なりき。いつの間にかく全国にこの語がひろがりけんと驚かるるのみ。されどこの語余には耳なれぬ故いづれの句も皆変に感じたり。或人いふ蕪村《ぶそん》既にこの語を用ゐたれば何の差支《さしつかえ》もあるまじと思ひて我らも平気に使ひ居たるなり云々。余いふ。蕪村既に用ゐたればこれを用ゐることにつき余が嘴《くちばし》を容《い》るべきにあらず、しかしながら蕪村は牡丹の句二十もある中に「ぼうたん」と読みたるはただ一句あるのみ。しかもその句は
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ぼうたんやしろがねの猫こがねの蝶《ちょう》
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といふ風変りの句なり、これを見れば蕪村も特にこの句にのみ用ゐたるが如く決して普通に用ゐたるにあらず。それを蕪村が常に用ゐたるが如く思ひて蕪村がこの語を用ゐたりなどいふ口実を設けこれを濫用《らんよう》すること蕪村は定めて迷惑に思ふなるべし、この事は特に蕪村のために弁じ置く。[#地から2字上げ](六月三日)
募集の俳句は句数に制限なければとて二十句三十句四十句五十句六十句七十句も出す人あり。出す人の心持はこれだけに多ければどれか一句はぬかれるであらうといふ事なり。故にこれを富鬮《とみくじ》的応募といふ。かやうなる句は初め四、五句読めば終まで読まずともその可否は分るなり。いな一句も読まざる内に佳句《かく》なき事は分るなり。凡《およ》そ何の題にて俳句を作るも無造作に一題五、六十句作れるほどならば俳句は誰にでもたやすく作れる誠につまらぬ者なるべし。そんなつまらぬ俳句の作りやうを知らうより糸瓜《へちま》の作り方でも研究したがましなるべし。[#地から2字上げ](六月四日)
松宇《しょうう》氏来りて蕪村《ぶそん》の文台《ぶんだい》といふを示さる。天《あま》の橋立《はしだて》の松にて作りけるとか。木理《もくめ》あらく上に二見《ふたみ》の岩と扇子《せんす》の中に松とを画がけり。筆法無邪気にして蕪村若き時の筆かとも思はる。文台の裏面には短文と発句とありて宝暦五年蕪村と署名あり。その字普通に見る所の蕪村の字といたく異なり。宝暦五年は蕪村四十一の年なれば蕪村の書方《しょほう》もいまだ定まりをらざりしにや。姑《しばら》く記して疑を存す。[#地から2字上げ](六月五日)
この頃の短夜《みじかよ》とはいへど病ある身の寐られねば行燈《あんどん》の下の時計のみ眺めていと永きここちす。
午前一時、隣の赤児《あかご》泣く。
午前二時、遠くに※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]聞ゆ。
午前三時、単行の汽缶車《きかんしゃ》通る。
午前四時、紙を貼《は》りたる壁の穴|僅《わずか》にしらみて窓外の追込籠《おいこみかご》に鳥ちちと鳴く、やがて雀《すずめ》やがて鴉《からす》。
午前五時、戸をあける音水汲む音世の中はやうやうに音がちになる。
午前六時、靴の音|茶碗《ちゃわん》の音子を叱る声拍手の声善の声悪の声|千声《せんせい》万響《ばんきょう》遂に余の苦痛の声を埋《うず》め終る。[#地から2字上げ](六月六日)
俳句を作る人大体の趣向を得て後言葉の遣《つか》ひ方をおろそかにする故主意の分らぬやうになるが多し。
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浮いて居る小便桶や柿の花
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といふ句の如きは、作者の意は柿の花が小便桶に浮いて居るつもりなるべけれどこのいひやうにては小便桶が水にでも浮いて居るやうに見えるなり。この例の句投書の中に甚だ多し。
附《つけて》いふ、浮いて居るを散つて居ると直してもやはり分らぬなり。[#地から2字上げ](六月七日)
『心の花』に大塚氏の日本服の美術的価値といふ演説筆記がある。この中に西洋の婦人服と日本の婦人服とを比較して最後の断案が
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始終動いて居る優美の挙動やまた動くにつれて現はれて来る変化無限の姿を見せるといふ点で日本服はドウしても西洋服に勝《まさ》つて居ります
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としてある。これは「運動を見せる」事の多いといふ理窟から推して日本服は西洋服よりも美なりと断定せられたのであらうか。万一さういふ次第ならばそれは不都合な論であると思ふ。いふまでもなく我々が物の美醜を判断するのは理窟の上からではなく、ただ感情の上からである。如何に理窟づめに出来上つた者でも感情が美と承知せぬからは美とはいはれぬ。「運動を見せる」とかいふ事を仮りに衣服の美の標準としたところで、而して日本服が余計にその美を現すやうに出来て居ると理窟の上で判断せられたところで、さて感情の方でそれを美と感じなければ美といはれぬのは当然である。論者は果して感情の上で先づ美と感ぜられて而して後にこの理窟を開析《かいせき》し出されたのであらうか。
論者もし感情の上から先づ日本女服の美を感ぜられたとならば余の感情は論者のと一致して居らぬといふ事を告白せねばならぬ。西洋日本両様の婦人服を取つてどつちが善いかといはれても、それはちよつと言ひかぬる事
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