第四で先生は坪内(雄蔵《ゆうぞう》)先生であつた。先生の講義は落語家の話のやうで面白いから聞く時は夢中で聞いて居る、その代り余らのやうな初学な者には英語修業の助けにはならなんだ。(これは『書生気質《しょせいかたぎ》』が出るより一年前の事だ)
とにかくに予備門に入学が出来たのだから勉強してやらうといふので英語だけは少し勉強した。もつとも余の勉強といふのは月に一度位徹夜して勉強するので毎日の下読などは殆どして往かない。それで学校から帰つて毎日何をして居るかといふと友と雑談するか春水《しゅんすい》の人情本でも読んで居た。それでも時々は良心に咎《とが》められて勉強する、その法は英語を一語々々覚えるのが第一の必要だといふので、洋紙の小片《こぎれ》に一つ宛英語を書いてそれを繰り返し繰り返し見ては暗記するまでやる。しかし月に一度位の徹夜ではとても学校で毎日やるだけを追つ付いて行くわけには往かぬ。
ある時何かの試験の時に余の隣に居た人は答案を英文で書いて居たのを見た。勿論英文なんかで書かなくても善いのをその人は自分の勝手ですらすらと書いて居るのだから余は驚いた。この様子では余の英語の力は他の同級生とどれだけ違ふか分らぬのでいよいよ心細くなつた。この人はその後間もなく美妙斎《びみょうさい》として世に名のつて出た。
しかし余の最も困つたのは英語の科でなくて数学の科であつた。この時数学の先生は隈本《くまもと》(有尚《ありひさ》)先生であつて数学の時間には英語より外の語は使はれぬといふ制規であつた。数学の説明を英語でやる位の事は格別むつかしい事でもないのであるが余にはそれが非常にむつかしい。つまり数学と英語と二つの敵を一時に引き受けたからたまらない、とうとう学年試験の結果|幾何《きか》学の点が足らないで落第した。[#地から2字上げ](六月十四日)
余が落第したのは幾何学に落第したといふよりもむしろ英語に落第したといふ方が適当であらう。それは幾何学の初にあるコンヴアース、オツポジトなどといふ事を英語で言ふのが余には出来なんだのでそのほか二行三行のセンテンスは暗記する事も容易でなかつた位に英語が分らなかつた。落第してからは二度目の復習であるから初のやうにない、よほど分りやすい。コンヴアースやオツポジトを英語でしやべる位は無造作に出来るやうになつたが、惜しい事にはこの時の先生はもう隈本先生ではなく、日本語づくめの平凡な先生であつた。しかしこの落第のために幾何学の初歩が心に会得せられ、従つてこの幾何学の初歩に非常に趣味を感ずるやうになり、それにつづいては、数学は非常に下手でかつ無知識であるけれど試験さへなくば理論を聞くのも面白いであらうといふ考を今に持つて居る。これは隈本先生の御蔭《おかげ》かも知れない。
今日は知らないがその頃試験の際にズルをやる者は随分沢山あつた。ズルとは試験の時に先生の眼を偸《ぬす》んで手控を見たり隣の人に聞いたりする事である。余も入学試験の時に始めてその味を知つてから後はズルをやる事を何とも思はなんだが入学後二年目位にふと気がついて考へて見るとズルといふ事は人の力を借りて試験に応ずるのであるから不正な上に極めて卑劣な事であると始めて感じた。それ以後は如何なる場合にもズルはやらなかつた。
明治二十二年の五月に始めて咯血《かっけつ》した。その後は脳が悪くなつて試験がいよいよいやになつた。
明治二十四年の春哲学の試験があるのでこの時も非常に脳を痛めた。ブツセ先生の哲学総論であつたが余にはその哲学が少しも分らない。一例をいふとサブスタンスのレアリテーはあるかないかといふやうな事がいきなり書いてある。レアリテーが何の事だか分らぬにあるかないか分るはずがない。哲学といふ者はこんなに分らぬ者なら余は哲学なんかやりたくないと思ふた。それだから滅多に哲学の講義を聞きにも往かない。けれども試験を受けぬ訳には往かぬから試験前三日といふに哲学のノート(蒟蒻板《こんにゃくばん》に摺《す》りたる)と手帳一冊とを携へたまま飄然《ひょうぜん》と下宿を出て向島の木母寺《もくぼじ》へ往た。この境内に一軒の茶店があつて、そこの上《かみ》さんは善く知つて居るから、かうかうで二、三日勉強したいのだが百姓家か何処か一間借りてくれまいかと頼んで見た。すると上《かみ》さんのいふには二、三日なら手前どもの内の二階が丁度明いて居るからお泊りになつても善いといふので大喜びでその二階へ籠城《ろうじょう》する事にきめた。
それから二階へ上つて蒟蒻板のノートを読み始めたが何だか霧がかかつたやうで十分に分らぬ。哲学も分らぬが蒟蒻板も明瞭でない、おまけに頭脳が悪いと来てゐるから分りやうはない。二十頁も読むともういやになつて頭がボーとしてしまふから、直《すぐ》に一本の鉛筆と一冊の手
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