》既にこの語を用ゐたれば何の差支《さしつかえ》もあるまじと思ひて我らも平気に使ひ居たるなり云々。余いふ。蕪村既に用ゐたればこれを用ゐることにつき余が嘴《くちばし》を容《い》るべきにあらず、しかしながら蕪村は牡丹の句二十もある中に「ぼうたん」と読みたるはただ一句あるのみ。しかもその句は
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ぼうたんやしろがねの猫こがねの蝶《ちょう》
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といふ風変りの句なり、これを見れば蕪村も特にこの句にのみ用ゐたるが如く決して普通に用ゐたるにあらず。それを蕪村が常に用ゐたるが如く思ひて蕪村がこの語を用ゐたりなどいふ口実を設けこれを濫用《らんよう》すること蕪村は定めて迷惑に思ふなるべし、この事は特に蕪村のために弁じ置く。[#地から2字上げ](六月三日)
募集の俳句は句数に制限なければとて二十句三十句四十句五十句六十句七十句も出す人あり。出す人の心持はこれだけに多ければどれか一句はぬかれるであらうといふ事なり。故にこれを富鬮《とみくじ》的応募といふ。かやうなる句は初め四、五句読めば終まで読まずともその可否は分るなり。いな一句も読まざる内に佳句《かく》なき事は分るなり。凡《およ》そ何の題にて俳句を作るも無造作に一題五、六十句作れるほどならば俳句は誰にでもたやすく作れる誠につまらぬ者なるべし。そんなつまらぬ俳句の作りやうを知らうより糸瓜《へちま》の作り方でも研究したがましなるべし。[#地から2字上げ](六月四日)
松宇《しょうう》氏来りて蕪村《ぶそん》の文台《ぶんだい》といふを示さる。天《あま》の橋立《はしだて》の松にて作りけるとか。木理《もくめ》あらく上に二見《ふたみ》の岩と扇子《せんす》の中に松とを画がけり。筆法無邪気にして蕪村若き時の筆かとも思はる。文台の裏面には短文と発句とありて宝暦五年蕪村と署名あり。その字普通に見る所の蕪村の字といたく異なり。宝暦五年は蕪村四十一の年なれば蕪村の書方《しょほう》もいまだ定まりをらざりしにや。姑《しばら》く記して疑を存す。[#地から2字上げ](六月五日)
この頃の短夜《みじかよ》とはいへど病ある身の寐られねば行燈《あんどん》の下の時計のみ眺めていと永きここちす。
午前一時、隣の赤児《あかご》泣く。
午前二時、遠くに※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]聞ゆ。
午前三時、単行の汽缶車《き
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