はでな事をはづかしがるといふ反対の性質が既に萌芽《ほうが》を発して居る。かういふ風であるから大人に成つて後東京の者は愛嬌《あいきょう》があつてつき合ひやすくて何事にもさかしく気がきいて居るのに反して田舎の者は甚だどんくさいけれどしかし国家の大事とか一世の大事業といふ事になるとかへつて田舎の者に先鞭《せんべん》をつけられ東京ツ子はむなしくその後塵《こうじん》を望む事が多い。一得一失。[#地から2字上げ](五月二十九日)
東京に生れた女で四十にも成つて浅草の観音様を知らんといふのがある。嵐雪《らんせつ》の句に
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五十にて四谷を見たり花の春
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といふのがあるから嵐雪も五十で初めて四谷を見たのかも知れない。これも四十位になる東京の女に余が筍《たけのこ》の話をしたらその女は驚いて、筍が竹になるのですかと不思議さうにいふて居た。この女は筍も竹も知つて居たのだけれど二つの者が同じものであるといふ事を知らなかつたのである。しかしこの女らは無智文盲だから特にかうであると思ふ人も多いであらうが決してさういふわけではない。余が漱石《そうせき》と共に高等中学に居た頃漱石の内をおとづれた。漱石の内は牛込《うしごめ》の喜久井町《きくいちょう》で田圃《たんぼ》からは一丁か二丁しかへだたつてゐない処である。漱石は子供の時からそこに成長したのだ。余は漱石と二人田圃を散歩して早稲田《わせだ》から関口の方へ往たが大方六月頃の事であつたらう、そこらの水田に植ゑられたばかりの苗がそよいで居るのは誠に善い心持であつた。この時余が驚いた事は、漱石は、我々が平生《へいぜい》喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかつたといふ事である。都人士《とじんし》の菽麦《しゅくばく》を弁ぜざる事は往々この類である。もし都《みやこ》の人が一匹の人間にならうといふのはどうしても一度は鄙住居《ひなずまい》をせねばならぬ。[#地から2字上げ](五月三十日)
僅《わず》かにでた南京豆《なんきんまめ》の芽が豆をかぶつたままで鉢の中に五つばかり並んで居る。渾沌《こんとん》。[#地から2字上げ](五月三十一日)
ガラス玉に十二匹の金魚を入れて置いたら或る同じ朝に八匹一所に死んでしまつた。無惨。[#地から2字上げ](六月一日)
この頃|碧梧桐《へきごとう》の俳句一種の新調をなす。その
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