物榎と聞いたばかりでも身の毛がよだつぢヤないかト黄な蝶は羽を震はしていふた。「だけれど、若しあんな処へ隠れて居ておどかす積りかも知れないと思ふてト少し落ちついた様子だ。やゝ暫し二つで何事か相談して居たが、終につれだちて、野中にある何がし様のお下屋敷の塀の内へ飛んではいつた。お下屋敷の牡丹畠にはおくれ咲の牡丹がところ/\に植ゑてある。向ふの方には舶来の草花らしいのが毒々しい色に咲いて、鉢栽のまゝいくつも片よせられて居る。今年はひイ様が御病気で、牡丹の盛りにもこちらへおいでが無いので、園は少し荒れたまゝ手入せずにある。留守居の人一人と門番の爺さん夫婦としか居らんのでお邸の内はしんと静まつて、丸で明家のやうだ。二つの蝶はこゝへ来ると案内知り顔にあちらの花こちらの花とうれしさうにうかれて居たが、やがて二つは一処に、くれなゐの大輪の牡丹の蘂に、羽をかはしてとまつた。「くたびれて眠くなつたト白い蝶は僅に羽を動かしながらいふた声は眠さうであつた。「もう寐るのト黄な蝶もはや眠りかけて居る。夕日の影は斜に権現の森を掠めて遠くに聞ゆる入相の鐘はあくびするやうに響いて来る。牡丹の花びらは少しづゝ少しづゝつぼまつて、とう/\二つの蝶を包んでしまふた。遠くも近くも霞みながらに暮れて、かづきかけたやうな月がぼんやりと上つた時、空遥かに愉快さうな音楽が聞えた。丁度今は六番目の舞踏で、美の神が胡蝶の舞を始めた処であつた。
[#地から2字上げ]子規
○哲学書を入れた本箱の上に、「女王」と上書した小さい函がある。これが僕の蓄へて居る蝶の宮殿だ。蓋の裏に列記せられたる女王の名は「花せゝり」「黄まだら」「日陰蝶」「蛇の目」「豹文」「緋威」「黄べり立て羽」「揚羽」「一文字」「山黄蝶」「日光白蝶」「大紫」「山女郎」などで、其中で価の貴いのは大紫、可愛らしいのは山黄蝶であらう。
[#地から2字上げ]子規
○独り病牀にちゞかまりて四十度以下の寒さに苦む時、外に遊び居たる隣の子が、あれ蝶々が蝶々がといふ声を聴いて一道の春は我が心の中に生じた。それはたしか二月の九日であつた。



底本:「日本の名随筆35 虫」作品社
   1985(昭和60)年9月25日第1刷発行
   2000(平成12)年1月30日第13刷発行
底本の親本:「子規全集 第一二巻」講談社
   1975(昭和50)年10月発行
入力:門田裕志

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