四百年後の東京
正岡子規
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)紅塵万丈《こうじんばんじょう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)緑|滴《したた》り
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「間+鳥」、45−14]
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[#5字下げ]神田川[#「神田川」は中見出し]
都会の中央、絶壁屏風の如く、緑|滴《したた》り水流れ、気清く神静かに、騒人は月をここに賞し、兇漢は罪をここに蔵す、これを現今の御茶の水の光景とす。紅塵万丈《こうじんばんじょう》の中この一小閑地を残して荒涼たる山間の趣を留む、夫《か》の錙銖《ししゅ》を争ふ文明開化なる者に疑ひなき能はざるなり。不折《ふせつ》が画く所、未来の神田川、また余輩と感を同じうせし者あるに因るか。図中、三重に橋を架す、中なるは今の御茶の水橋の高さにあり、屋上最高の処に架したるは高架鉄道にして、最下にある者もまた一般の通路なり。三層五層の楼閣は突兀《とっこつ》として空を凌《しの》ぎ、その下層はかへつて崖低く水に臨む処にあり。上層と下層と相通ずるには石階を取つて迂回《うかい》すべく、昇降機に依りて上下すべし。両岸楼閣には旅館あり、割烹《かっぽう》店あり、喫茶|珈琲《コーヒー》店あり、金銀雑器書画雑貨を陳列せる高等商店あり、神田婦人|倶楽部《クラブ》あり、新派俳優倶楽部あり、新奇発明の色取写真店あり。スルガホテルは旅館の最大なる者、茗渓楼《めいけいろう》は割烹店の最流行せる者、喫茶珈琲店の巨魁《きょかい》たる、小赤壁亭が一種の社交倶楽部的組織を以て、雅俗を問はず一般に歓迎せらるるは同亭に出入する煙草《タバコ》吸殻商の産を興したるにても知るべし。あるとある贅沢《ぜいたく》、あるとある快楽、凡そ人間世界に為し得べき贅沢と快楽を攅《あつ》めて装飾したるこの地は到底明治時代の想像に及ぶべくもあらず。或る華奢《かしゃ》なる美術狂某がこの地に天然の趣味を欠ぎたるを恨み、吉野、嵐山の桜の花片を汽車二列車に送らしめてこれを御茶の水に浮べ、数艘の画舫《がぼう》、佳人を満載してその間を漕ぎまはらしめたりといふ佳話は一日として小赤壁亭中の話頭に上らざる事あらず。
しかれどもこの地の精華はその実、上層にあらずして下層にあり、御茶の水上橋に非ずして御茶の水下橋にあり(橋の名のかく名づけられたるなり)下橋を渡りて隧道《ずいどう》に依りて通ずる幾個の地下国は尽くこれ待合(今の待合とやや性質を異にす)にして、毎家、幾多の蛾眉《がび》を貯ふ。房廓は昼夜数百の電燈を点じて、清気機は常に新鮮なる空気を供給す。房中の粧飾、衣服の驕奢《きょうしゃ》、楼に依り、房に依り、人に依りて各その好尚を異にす。濃艶なる者は金銀珠玉、鳳凰《ほうおう》舞ひ孔雀《くじゃく》鳴く。清楚なる者は白沙浅水、涼風起り白鷺《しらさぎ》飛ぶ。洋風なる者は束髪長裾、俗にこれを嬢と呼び、和装なる者は雲髻《うんけい》寛袖、俗にこれを姫といふ。小桜姫とレツドローズ嬢とは両派の名妓にして彼が一月の纏頭《てんとう》は二万円を下らずといふ。世人この地を称して楽園と呼びまた白魔窟と呼ぶ。かつてここに遊びたる紳商某は足再びその室を出でずして鉅万《きょまん》の産を蕩尽《とうじん》したる事あり。文士某がこの地の名妓仇国と心中したる時の遺書は一巻の小説として出版せられその売高は以てその生前の負債を償ひたる事あり。
有名なる考証家中邦婀娜夢氏は『四百年後の東京』と題せる一書を著して非常の好評を博せり。その中の一節に曰く
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野蛮の先導者暗黒時代の松明持《たいまつもち》孔子を祭りたる廟と今なほ二、三の考古家によりて愛読せらるる『論語』といふ古書における「子の曰く」を研究したる学校とのありし処は今の○○シヤボン屋のシヤボン庫のあたりなりといふ。シヤボン屋主人の物語る所によればその第三シヤボン庫と第四シヤボン庫との間にある朽根《くちね》は彼の幼時なほ緑葉を見るに及びたる老樹にして昔は聖堂構内の物なりしといひ伝へたりと。
御茶の水殺人事件とて当時の東京に喧伝《けんでん》したる、特にこの事件のために新聞の雑報小説に残酷なる傾向を促したりとまで称へらるる事件の被害者「この」の屍骸《しがい》の横《よこた》はりたるは、待合|白※[#「間+鳥」、45−14]《はっかん》亭の六扇窓下にして、スルガホテルの厠《かわや》の窓より見下すべき駿台第一の老屋、その屋の棟に金箔の僅かに残りたる十字架は、その昔宗教隆盛時代に建築せられ、当時の慷慨家をして「彼|巍然《ぎぜん》たるニコライ会堂」あるいは「東京市中を睥睨《へいげい》する希臘《ギリシャ》教会
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