見あたらず候。「飛ぶ鷲の翼もたわに」などいへるは眞淵集中の佳什《かじふ》にて強き方の歌なれども意味ばかり強くて調子は弱く感ぜられ候。實朝をして此意匠を詠ましめば箇樣な調子には詠むまじく候。「ものゝふの矢なみつくろふ」の歌の如き鷲を吹き飛ばすほどの荒々しき趣向ならねど調子の強き事は並ぶ者無く此歌を誦《しよう》すれば霰《あられ》の音を聞くが如き心地致候。眞淵既に然りとせば眞淵以下の歌よみは申す迄も無く候。斯る歌よみに蕪村派の俳句集か盛唐の詩集か讀ませたく存候へども驕《おご》りきつたる歌よみどもは宗旨以外の書を讀むことは承知致すまじく勸めるだけが野暮《やぼ》にや候べき。
 御承知の如く生は歌よみよりは局外者とか素人とかいはるゝ身に有之從つて詳しき歌の學問は致さず格が何だか文法が何だか少しも承知致さず候へども大體の趣味如何に於ては自ら信ずる所あり此點に就きて却《かへつ》て專門の歌よみが不注意を責むる者に御座候。箇樣に惡口をつき申さば生を彌次馬連と同樣に見る人もあるべけれど生の彌次馬連なるか否かは貴兄は御承知の事と存候。異論の人あらば何人にても來訪あるやう貴兄より御傳へ被下度三日三夜なりともつゞけさまに議論可致候。熱心の點に於ては決して普通の歌よみどもには負け不申候。情激し筆走り候まゝ失禮の語も多かるべく御海容可被下候。拜具。[#地から2字上げ]〔日本 明治31[#「31」は縦中横]・2・18[#「18」は縦中横]〕
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 四たび歌よみに與ふる書


 拜啓。空論ばかりにては傍人に解し難く實例に就きて評せよとの御言葉御尤と存候。實例と申しても際限も無き事にていづれを取りて評すべきやらんと惑ひ候へども成るべく名高き者より試み可申候。御思ひあたりの歌ども御知らせ被下度候。さて人丸の歌にかありけん
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ものゝふの八十氏川《やそうぢがは》の網代木《あじろぎ》に
       いざよふ波のゆくへ知らずも
[#ここで字下げ終わり]
といふが屡※[#二の字点、1−2−22]引きあひに出されるやうに存候。此歌萬葉時代に流行せる一氣|呵成《かせい》の調にて少しも野卑なる處は無く字句もしまり居り候へども全體の上より見れば上三句は贅物《ぜいぶつ》に屬し候。「足引の山鳥の尾の」といふ歌も前置の詞多けれどあれは前置の詞長きために夜の長き樣を感ぜられ候。これは又上三句全く役に立ち不申候。此歌を名所の歌の手本に引くは大たわけに御座候。總じて名所の歌といふは其の地の特色なくては叶はず此歌の如く意味無き名所の歌は名所の歌になり不申候。併し此歌を後世の俗氣紛々たる歌に比ぶれば勝ること萬々に候。且つ此種の歌は眞似すべきにはあらねど多き中に一首二首あるは面白く候。
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月見れば千々に物こそ悲しけれ
       我身一つの秋にはあらねど
[#ここで字下げ終わり]
といふ歌は最も人の賞する歌なり。上三句はすらりとして難無けれども下二句は理窟なり蛇足なりと存候。歌は感情を述ぶる者なるに理窟を述ぶるは歌を知らぬ故にや候らん。此歌下二句が理窟なる事は消極的に言ひたるにても知れ可申、若し我身一つの秋と思ふと詠むならば感情的なれども秋ではないがと當り前の事をいはゞ理窟に陷り申候。箇樣な歌を善しと思ふは其人が理窟を得離れぬがためなり、俗人は申すに及ばず今の所謂歌よみどもは多く理窟を並べて樂み居候。嚴格に言はゞ此等は歌でも無く歌よみでも無く候。
[#ここから4字下げ]
芳野山霞の奧は知らねども
       見ゆる限りは櫻なりけり
[#ここで字下げ終わり]
 八田知紀《はつたとものり》の名歌とか申候。知紀の家集はいまだ讀まねどこれが名歌ならば大概底も見え透き候。此も前のと同じく「霞の奧は知らねども」と消極的に言ひたるが理窟に陷り申候。既に見ゆる限りはといふ上は見えぬ處は分らぬがといふ意味は其の裏に籠り居り候ものをわざ/\知らねどもとことわりたる、これが下手と申すものに候。且つ此歌の姿、見ゆる限りは櫻なりけりなどいへるも極めて拙《つたな》く野卑なり、前の千里の歌は理窟こそ惡けれ姿は遙に立ちまさり居候。序に申さんに消極的に言へば理窟になると申しゝ事いつでもしかなりといふに非ず、客觀的の景色を連想していふ場合は消極にても理窟にならず、例へば「駒とめて袖うち拂ふ影もなし」といへるが如きは客觀の景色を連想したる迄にて斯くいはねば感情を現す能はざる者なれば無論理窟にては無之候。又全體が理窟めきたる歌あり(釋教の歌の類)これらは却て言ひ樣にて多少の趣味を添ふべけれど、此芳野山の歌の如く全體が客觀的即ち景色なるに其中に主觀的理窟の句がまじりては殺風景いはん方無く候。又同人の歌にかありけん
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うつせみの我世の限り見るべきは
       嵐の山の櫻なりけり
[#ここで字下げ終わり]
といふが有之候由さて/\驚き入つたる理窟的の歌にては候よ。嵐山の櫻のうつくしいと申すは無論客觀的の事なるにそれを此歌は理窟的に現したり、此歌の句法は全體理窟的の趣向の時に用うべき者にして、此趣向の如く客觀的にいはざるべからざる處に用ゐたるは大俗のしわざと相見え候。「べきは」と係《か》けて「なりけり」と結びたるが最理窟的殺風景の處に有之候。一生嵐山の櫻を見やうといふも變なくだらぬ趣向なり、此歌全く取所無之候。猶手當り次第可申上候也。
[#地から2字上げ]〔日本 明治31[#「31」は縦中横]・2・21[#「21」は縦中横]〕
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 五たび歌よみに與ふる書


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心あてに見し白雲は麓にて
       思はぬ空に晴るゝ不盡の嶺
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といふは春海《はるみ》のなりしやに覺え候。これは不盡《ふじ》の裾より見上げし時の即興なるべく生も實際に斯く感じたる事あれば面白き歌と一時は思ひしが今ま見れば拙き歌に有之候。第一、麓といふ語如何や、心あてに見し處は少くも半腹位の高さなるべきをそれを麓といふべきや疑はしく候。第二、それは善しとするも「麓にて」の一句理窟ぽくなつて面白からず、只心あてに見し雲よりは上にありしとばかり言はねばならぬ處に候。第三、不盡の高く壯《さかん》なる樣を詠まんとならば今少し力強き歌ならざるべからず、此歌の姿弱くして到底不盡に副《そ》ひ申さず候。几董《きとう》の俳句に「晴るゝ日や雲を貫く雪の不盡」といふがあり、極めて尋常に敍し去りたれども不盡の趣は却て善く現れ申候。
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もしほ燒く難波の浦の八重霞
       一重はあまのしわざなりけり
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 契冲の歌にて俗人の傳稱する者に有之候へども此歌の品下りたる事は稍心ある人は承知致居事と存候。此歌の傳稱せらるゝはいふ迄も無く八重一重の掛合にあるべけれど余の攻撃點も亦此處に外ならず、總じて同一の歌にて極めてほめる處と他の人の極めて誹《そし》る處とは同じ點に在る者に候。八重霞といふもの固より八段に分れて霞みたるにあらねば一重といふこと一向に利き不申、又初に「藻汐《もしほ》焚く」と置きし故後に煙とも言ひかねて「あまのしわざ」と主觀的に置きたる處いよ/\俗に墮ち申候。こんな風に詠まずとも、霞の上に藻汐焚く煙のなびく由尋常に詠まばつまらぬ迄も斯る厭味は出來申間敷候。
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心あてに折らはや折らむ初霜の
       置きまとはせる白菊の花
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 此|躬恒《みつね》の歌百人一首にあれば誰も口ずさみ候へども一文半文のねうちも無之駄歌に御座候。此歌は嘘の趣向なり、初霜が置いた位で白菊が見えなくなる氣遣無之候。趣向嘘なれば趣も絲瓜も有之不申、蓋しそれはつまらぬ嘘なるからにつまらぬにて、上手な嘘は面白く候。例へば「鵲《かささぎ》のわたせる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける」面白く候。躬恒のは瑣細《ささい》な事を矢鱈《やたら》に仰山に述べたのみなれば無趣味なれども家持のは全く無い事を空想で現はして見せたる故面白く被感候。嘘を詠むなら全く無い事とてつもなき嘘を詠むべし、然らざれば有の儘に正直に詠むが宜しく候。雀が舌|剪《き》られたとか狸が婆に化けたなどの嘘は面白く候。今朝は霜がふつて白菊が見えんなどと眞面目らしく人を欺く仰山的の嘘は極めて殺風景に御座候。「露の落つる音」とか「梅の月が匂ふ」とかいふ事をいふて樂む歌よみが多く候へども是等も面白からぬ嘘に候。總て嘘といふものは一二度は善けれどたび/\詠まれては面白き嘘も面白からず相成申候。況して面白からぬ嘘はいふ迄も無く候。「露の音」「月の匂」「風の色」などは最早十分なれば今後の歌には再び現れぬやう致したく候。「花の匂」などいふも大方は嘘なり、櫻などには格別の匂は無之、「梅の匂」でも古今以後の歌よみの詠むやうに匂ひ不申候。
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春の夜の闇はあやなし梅の花
       色こそ見えね香やは隱るゝ
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「梅闇に匂ふ」とこれだけで濟む事を三十一文字に引きのばしたる御苦勞加減は恐れ入つた者なれどこれも此頃には珍らしき者として許すべく候はんに、あはれ歌人よ「闇に梅匂ふ」の趣向は最早打どめに被成ては如何や。闇の梅に限らず普通の梅の香も古今集だけにて十餘りもありそれより今日迄の代々の歌よみがよみし梅の香はおびたゞしく數へられもせぬ程なるにこれも善い加減に打ちとめて香水香料に御用ひ被成《なされ》候は格別其外歌には一切之を入れぬ事とし鼻つまりの歌人と嘲らるゝ程に御遠ざけ被成ては如何や。小さき事を大きくいふ嘘が和歌腐敗の一大原因と相見え申候。
[#地から2字上げ]〔日本 明治31[#「31」は縦中横]・2・23[#「23」は縦中横]〕
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 六たび歌よみに與ふる書


 御書面を見るに愚意を誤解被致候。殊に變なるは御書面中四五行の間に撞著《どうちやく》有之候。初に「客觀的景色に重きを措きて詠むべし」とあり次に「客觀的にのみ詠むべきものとも思はれず」云々とあるは如何。生は客觀的にのみ歌を詠めと申したる事は無之候。客觀に重きを置けと申したる事も無けれど此方は愚意に近きやう覺え候。「皇國の歌は感情を本として」云々とは何の事に候や。詩歌に限らず總ての文學が感情を本とする事は古今東西相違あるべくも無之、若し感情を本とせずして理窟を本としたる者あらばそれは歌にても文學にてもあるまじく候。故《ことさ》らに皇國の歌はなど言はるゝは例の歌より外に何物も知らぬ歌よみの言かと被怪候。「何れの世に何れの人が理窟を讀みては歌にあらずと定め候哉」とは驚きたる御問に有之候。理窟が文學に非ずとは古今の人東西の人|盡《ことごと》く一致したる定義にて、若し理窟をも文學なりと申す人あらばそれは大方日本の歌よみならんと存候。
 客觀主觀感情理窟の語に就きて或は愚意を誤解被致居にや。全く客觀的に詠みし歌なりとも感情を本としたるは言を竢《ま》たず。例へば橋の袂に柳が一本風に吹かれて居るといふことを其儘歌にせんには其歌は客觀的なれども、元と此歌を作るといふは此客觀的景色を美なりと思ひし結果なれば感情に本づく事は勿論にて只うつくしいとか奇麗とかうれしいとか樂しいとかいふ語を著くると著けぬとの相違に候。又主觀的と申す内にも感情と理窟との區別有之、生が排斥するは主觀中の理窟の部分にして、感情の部分には無之候。感情的主觀の歌は客觀の歌と比して此主客兩觀の相違の點より優劣をいふべきにあらず、されば生は客觀に重きを置く者にても無之候。但和歌俳句の如き短き者には主觀的佳句よりも客觀的佳句多しと信じ居候へば客觀に重きを置くといふも此處の事を意味すると見れば差支無之候。又主觀客觀の區別、感情理窟の限界は實際判然したる者に非ずとの御論は御尤に候。それ故に善惡可否巧拙と評するも固より劃然たる區別あるに非ず巧の極端と拙の極端とは毫《がう》も紛るゝ處あらねど巧と拙との中間に在る者は巧とも拙とも申し兼候。感情と理窟の中間に在る者は此場合に當り申候。
「同じ用語同じ花月に
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