とくやしくも腹立たしく相成候。先づ古今集といふ書を取りて第一枚を開くと直に「去年《こぞ》とやいはん今年とやいはん」といふ歌が出て來る實に呆れ返つた無趣味の歌に有之候。日本人と外國人との合の子を日本人とや申さん外國人とや申さんとしやれたると同じ事にてしやれにもならぬつまらぬ歌に候。此外の歌とても大同小異にて佗[#「佗」に「ママ」の注記]洒落か理窟ッぽい者のみに有之候。それでも強ひて古今集をほめて言はゞつまらぬ歌ながら萬葉以外に一風を成したる處は取餌[#「餌」に「ママ」の注記]にて如何なる者にても始めての者は珍らしく覺え申候。只之を眞似るをのみ藝とする後世の奴こそ氣の知れぬ奴には候なれ。それも十年か二十年の事なら兎も角も二百年たつても三百年たつても其糟粕を嘗《な》めて居る不見識には驚き入候。何代集の彼ン代集のと申しても皆古今の糟粕の糟粕の糟粕の糟粕ばかりに御座候。
貫之とても同じ事に候。歌らしき歌は一首も相見え不申候。嘗《かつ》て或る人に斯く申し候處其人が「川風寒く千鳥鳴くなり」の歌は如何にやと申され閉口致候。此歌ばかりは趣味ある面白き歌に候。併し外にはこれ位のもの一首もあるまじく候。「空に知られぬ雪」とは佗洒落にて候。「人はいざ心もしらず」とは淺はかなる言ひざまと存候。但貫之は始めて箇樣な事を申候者にて古人の糟粕にては無之候。詩にて申候へば古今集時代は宋時代にもたぐへ申すべく俗氣紛々と致し居候處は迚も唐詩とくらぶべくも無之候得共さりとて其を宋の特色として見れば全體の上より變化あるも面白く宋はそれにてよろしく候ひなん。それを本尊にして人の短所を眞似る寛政以後の詩人は善き笑ひ者に御座候。
古今集以後にては新古今稍すぐれたりと相見え候。古今よりも善き歌を見かけ申候。併し其善き歌と申すも指折りて數へる程の事に有之候。定家といふ人は上手か下手か譯の分らぬ人にて新古今の撰定を見れば少しは譯の分つて居るのかと思へば自分の歌にはろくな者無之「駒とめて袖うちはらふ」「見わたせば花も紅葉も」抔が人にもてはやさるゝ位の者に有之候。定家を狩野派の畫師に比すれば探幽と善く相似たるかと存候。定家に傑作無く探幽にも傑作無し。併し定家も探幽も相當に練磨の力はありて如何なる場合にも可なりにやりこなし申候。兩人の名譽は相|如《し》く程の位置に居りて〈定〉家以後歌の門閥を生じ探幽以後畫の門閥を生じ兩家
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