から2字上げ]〔日本 明治31[#「31」は縦中横]・2・23[#「23」は縦中横]〕
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 六たび歌よみに與ふる書


 御書面を見るに愚意を誤解被致候。殊に變なるは御書面中四五行の間に撞著《どうちやく》有之候。初に「客觀的景色に重きを措きて詠むべし」とあり次に「客觀的にのみ詠むべきものとも思はれず」云々とあるは如何。生は客觀的にのみ歌を詠めと申したる事は無之候。客觀に重きを置けと申したる事も無けれど此方は愚意に近きやう覺え候。「皇國の歌は感情を本として」云々とは何の事に候や。詩歌に限らず總ての文學が感情を本とする事は古今東西相違あるべくも無之、若し感情を本とせずして理窟を本としたる者あらばそれは歌にても文學にてもあるまじく候。故《ことさ》らに皇國の歌はなど言はるゝは例の歌より外に何物も知らぬ歌よみの言かと被怪候。「何れの世に何れの人が理窟を讀みては歌にあらずと定め候哉」とは驚きたる御問に有之候。理窟が文學に非ずとは古今の人東西の人|盡《ことごと》く一致したる定義にて、若し理窟をも文學なりと申す人あらばそれは大方日本の歌よみならんと存候。
 客觀主觀感情理窟の語に就きて或は愚意を誤解被致居にや。全く客觀的に詠みし歌なりとも感情を本としたるは言を竢《ま》たず。例へば橋の袂に柳が一本風に吹かれて居るといふことを其儘歌にせんには其歌は客觀的なれども、元と此歌を作るといふは此客觀的景色を美なりと思ひし結果なれば感情に本づく事は勿論にて只うつくしいとか奇麗とかうれしいとか樂しいとかいふ語を著くると著けぬとの相違に候。又主觀的と申す内にも感情と理窟との區別有之、生が排斥するは主觀中の理窟の部分にして、感情の部分には無之候。感情的主觀の歌は客觀の歌と比して此主客兩觀の相違の點より優劣をいふべきにあらず、されば生は客觀に重きを置く者にても無之候。但和歌俳句の如き短き者には主觀的佳句よりも客觀的佳句多しと信じ居候へば客觀に重きを置くといふも此處の事を意味すると見れば差支無之候。又主觀客觀の區別、感情理窟の限界は實際判然したる者に非ずとの御論は御尤に候。それ故に善惡可否巧拙と評するも固より劃然たる區別あるに非ず巧の極端と拙の極端とは毫《がう》も紛るゝ處あらねど巧と拙との中間に在る者は巧とも拙とも申し兼候。感情と理窟の中間に在る者は此場合に當り申候。
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