にてもなく、しきたりに倣《なら》はんとするにてもなく、ただ自己が美と感じたる趣味をなるべく善く分るやうに現すが本来の主意に御座候[#「ただ自己が美と感じたる趣味をなるべく善く分るやうに現すが本来の主意に御座候」に白丸傍点]。故に俗語を用ゐたる方その美感を現すに適せりと思はば、雅語を捨てて俗語を用ゐ可申、また古来のしきたりの通りに詠むことも有之候へど、それはしきたりなるが故にそれを守りたるにては無之《これなく》、その方が美感を現すに適せるがためにこれを用ゐたるまでに候。古人のしきたりなど申せども、その古人は自分が新《あらた》に用ゐたるぞ多く候べき。
 牡丹《ぼたん》と深見草《ふかみぐさ》との区別を申さんに、生らには深見草といふよりも牡丹といふ方が牡丹の幻影早く著《いちじるし》く現れ申候。かつ「ぼたん」といふ音の方が強くして、実際の牡丹の花の大きく凛《りん》としたる所に善く副《そ》ひ申候。故に客観的に牡丹の美を現さんとすれば、牡丹と詠むが善き場合多かるべく候。
 新奇なる事を詠めといふと、汽車、鉄道などいふいはゆる文明の器械を持ち出す人あれど大《おおい》に量見が間違ひをり候。文明の器械は多
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