再び歌よみに与ふる書


 貫之《つらゆき》は下手な歌よみにて『古今集』はくだらぬ集に有之候。その貫之や『古今集』を崇拝するは誠に気の知れぬことなどと申すものの、実はかく申す生も数年前までは『古今集』崇拝の一人にて候ひしかば、今日世人が『古今集』を崇拝する気味合《きみあい》は能《よ》く存申候。崇拝してゐる間は誠に歌といふものは優美にて『古今集』は殊《こと》にその粋を抜きたる者とのみ存候ひしも、三年の恋|一朝《いっちょう》にさめて見れば、あんな意気地《いくじ》のない女に今までばかされてをつた事かと、くやしくも腹立たしく相成候。先づ『古今集』といふ書を取りて第一枚を開くと直ちに「去年《こぞ》とやいはん今年とやいはん」といふ歌が出て来る、実に呆《あき》れ返つた無趣味の歌に有之候。日本人と外国人との合《あい》の子《こ》を日本人とや申さん外国人とや申さんとしやれたると同じ事にて、しやれにもならぬつまらぬ歌に候。この外の歌とても大同小異にて駄洒落《だじゃれ》か理窟ツぽい者のみに有之候。それでも強《し》ひて『古今集』をほめて言はば、つまらぬ歌ながら万葉以外に一風を成したる処は取得《とりえ》にて
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