候。それ故に善悪可否巧拙と評するも固《もと》より画然たる区別あるに非ず、巧の極端と拙の極端とは毫《ごう》も紛《まぎ》るる所あらねど、巧と拙との中間にある者は巧とも拙とも申し兼《かね》候。感情と理窟の中間にある者はこの場合に当り申候。
「同じ用語同じ花月にてもそれに対する吾人《ごじん》の観念と古人のと相違する事珍しからざる事にて」云々、それは勿論の事なれど、そんな事は生の論ずることと毫も関係無之候。今は古人の心を忖度《そんたく》するの必要無之、ただ此処にては、古今東西に通ずる文学の標準(自らかく信じをる標準なり)を以て文学を論評する者に有之候。昔は風帆船《ふうはんせん》が早かつた時代もありしかど、蒸気船を知りてをる眼より見れば、風帆船は遅しと申すが至当の理に有之、貫之は貫之時代の歌の上手とするも、前後の歌よみを比較して貫之より上手の者外に沢山有之と思はば、貫之を下手と評することまた至当に候。歴史的に貫之を褒《ほ》めるならば生も強《あなが》ち反対にては無之候へども、只今の論は歴史的にその人物を評するにあらず、文学的にその歌を評するが目的に有之候。
「日本文学の城壁ともいふべき国歌」云々とは
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