々《おお》しく強き歌を好み候へども、さてその歌を見ると存外に雄々しく強き者は少く、実朝の歌の雄々しく強きが如きは真淵には一首も見あたらず候。「飛ぶ鷲《わし》の翼もたわに」などいへるは、真淵集中の佳什《かじゅう》にて強き方の歌なれども、意味ばかり強くて調子は弱く感ぜられ候。実朝をしてこの意匠を詠ましめば箇様な調子には詠むまじく候。「もののふの矢なみつくろふ」の歌の如き、鷲を吹き飛ばすほどの荒々しき趣向ならねど、調子の強き事は並ぶ者なく、この歌を誦《しょう》すれば霰《あられ》の音を聞くが如き心地致候。真淵既にしかりとせば真淵以下の歌よみは申すまでもなく候。かかる歌よみに、蕪村派《ぶそんは》の俳句集か盛唐《せいとう》の詩集か読ませたく存候へども、驕《おご》りきつたる歌よみどもは、宗旨以外の書を読むことは、承知致すまじく、勧めるだけが野暮《やぼ》にや候べき。
御承知の如く、生は歌よみよりは局外者とか素人《しろうと》とかいはるる身に有之、従つて詳《くわ》しき歌の学問は致さず、格が何だか文法が何だか少しも承知致さず候へども、大体の趣味|如何《いかん》においては自ら信ずる所あり、この点につきてかへ
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