げ](明治三十一年二月二十三日)
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六《む》たび歌よみに与ふる書
御書面を見るに愚意を誤解|被致《いたされ》候。殊《こと》に変なるは御書面中四、五行の間に撞著《どうちゃく》有之候。初《はじめ》に「客観的景色に重きを措《お》きて詠むべし」とあり、次に「客観的にのみ詠むべきものとも思はれず」云々《うんぬん》とあるは如何。生は客観的にのみ歌を詠めと申したる事は無之候。客観に重きを置けと申したる事もなけれどこの方は愚意に近きやう覚え候。「皇国の歌は感情を本《もと》として」云々とは何の事に候や。詩歌に限らず総ての文学が感情を本とする事は古今東西相違あるべくも無之、もし感情を本とせずして理窟を本としたる者あらばそれは歌にても文学にてもあるまじく候。ことさらに皇国の歌はなど言はるるは例の歌より外に何物も知らぬ歌よみの言かと被怪《あやしまれ》候。「いづれの世にいづれの人が理窟を読みては歌にあらずと定め候|哉《や》」とは驚きたる御問《おんとい》に有之候。理窟が文学に非《あら》ずとは古今の人、東西の人|尽《ことごと》く一致したる定義にて、もし理窟をも文学なりと申す人あらば、それは大方日本の歌よみならんと存候。
客観主観感情理窟の語につきて、あるいは愚意を誤解|被致《いたされ》をるにや。全く客観的に詠みし歌なりとも感情を本としたるは言を竢《ま》たず。例へば橋の袂《たもと》に柳が一本風に吹かれてゐるといふことを、そのまま歌にせんにはその歌は客観的なれども、元《も》とこの歌を作るといふはこの客観的景色を美なりと思ひし結果なれば、感情に本づく事は勿論《もちろん》にて、ただうつくしいとか、綺麗《きれい》とか、うれしいとか、楽しいとかいふ語を著《つ》くると著けぬとの相違に候。また主観的と申す内にも感情と理窟との区別有之、生が排斥するは主観中の理窟の部分にして、感情の部分には無之候。感情的主観の歌は客観の歌と比して、この主客両観の相違の点より優劣をいふべきにあらず、されば生は客観に重きを置く者にても無之候。但《ただし》和歌俳句の如き短き者には主観的佳句よりも客観的佳句多しと信じをり候へば、客観に重きを置くといふも此処《ここ》の事を意味すると見れば差支《さしつかえ》無之候。また主観客観の区別、感情理窟の限界は実際判然したる者に非ずとの御論《ごろん》は御尤《ごもっとも》に
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