とりどころ》無之候。なほ手当り次第|可申上《もうしあぐべく》候也。
[#地から2字上げ](明治三十一年二月二十一日)
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五《いつ》たび歌よみに与ふる書
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心あてに見し白雲は麓《ふもと》にて思はぬ空に晴るる不尽《ふじ》の嶺《ね》
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といふは春海《はるみ》のなりしやに覚え候。これは不尽の裾《すそ》より見上げし時の即興なるべく、生も実際にかく感じたる事あれば面白き歌と一時は思ひしが、今見れば拙き歌に有之候。第一、麓といふ語|如何《いかが》や、心あてに見し処は少くも半腹《はんぷく》位の高さなるべきを、それを麓といふべきや疑はしく候。第二、それは善しとするも「麓にて」の一句理窟ぽくなつて面白からず、ただ心あてに見し雲よりは上にありしとばかり言はねばならぬ処に候。第三、不尽の高く壮《さかん》なる様を詠まんとならば、今少し力強き歌ならざるべからず、この歌の姿弱くして到底不尽に副《そ》ひ申さず候。几董《きとう》の俳句に「晴るる日や雲を貫く雪の不尽」といふがあり、極めて尋常に叙《じょ》し去りたれども不尽の趣はかへつて善く現れ申候。
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もしほ焼く難波《なにわ》の浦の八重霞《やえがすみ》一重《ひとえ》はあまのしわざなりけり
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契沖《けいちゅう》の歌にて俗人の伝称する者に有之候へども、この歌の品下りたる事はやや心ある人は承知致しをる事と存候。この歌の伝称せらるるは、いふまでもなく八重一重の掛合《かけあわせ》にあるべけれど、余の攻撃点もまた此処《ここ》に外ならず、総じて同一の歌にて極めてほめる処と、他の人の極めて誹《そし》る処とは同じ点にある者に候。八重霞といふもの固《もと》より八段に分れて霞みたるにあらねば、一重といふこと一向に利き不申、また初《はじめ》に「藻汐《もしお》焼く」と置きし故、後に煙とも言ひかねて「あまのしわざ」と主観的に置きたる処、いよいよ俗に堕《お》ち申候。こんな風に詠まずとも、霞の上に藻汐|焚《や》く煙のなびく由尋常に詠まば、つまらぬまでもかかる厭味《いやみ》は出来申間敷候。
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心あてに折らばや折らむ初霜《はつしも》の置きまどはせる白菊の花
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この躬恒《みつね》の歌、百人一首にあれば誰も口ずさみ
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