中に身を投じて唯一《ゆいいつ》の塁壁《るいへき》と頼《たの》むべきは第一第二第三の基《ベース》なり。けだし走者の身体の一部この基[#「けだし走者の身体の一部この基」に傍点](坐蒲団《ざぶとん》のごとき者)に触れおる間は敵の球たとい身の上に触るるも決して除外とならず[#「に触れおる間は敵の球たとい身の上に触るるも決して除外とならず」に傍点]。(この場合において基は鬼事《おにごと》のおか[#「おか」に白丸傍点]のごとし)故に走者はなるべく球の自己に遠かる時を見て疾走《しっそう》して線を通過すべし。例えば走者第一基にあり、これより第二基に到《いた》らんとするには投者《ピッチャー》が球を取て本基(の打者《ストライカー》)に向って投ずるその瞬間《しゅんかん》を待ち合せ球手を離るると見る時走り出すなり。この時|攫者《キャッチャー》はその球を取るやいなや直ちに第二基に向って投ずべく第二|基人《ベースマン》はその球を取りて走者に触れんと擬《ぎ》すべし。走者は匆卒《そうそつ》の際にも常に球の運動に注目しかかる時直ちに進んで険を冒《おか》し第二基に入るか退いて第一基に帰るかを決断しこれを実行せざるべからず。第二基より第三基に移る時もまたしかり。第三基より本基《ホームベース》に回る時もまたしかり。但《ただし》第三基は第二基よりも攫者に近く本基は第三基よりも獲者に近きをもって通過せんとするには次第に危険を増すべし。走者《ラナー》二人ある時は先に進みたる走者をまず斃《たお》さんとすること防者が普通の手段なり。走者三人ある時はこれを満基《フルベース》という。(一基に走者一人以上留まることを許さず故に走者は三人をもって最多数とす)満基の時打者が走者となれば今までの走者は是非《ぜひ》とも一基ずつ進まざるべからず。これ最も危険なる最も愉快《ゆかい》なる場合にしてこの時の打者の一撃《いちげき》は実に勝負にも関すべく打者もし好球を撃《う》たば二人の廻了《ホームイン》を生ずることあり、もし悪球を撃たば三人ことごとく立尽《スタンジング》(あるいは立往生という)に終ることさえあるなり。とにかく走者多き時は人は右に走り左に走り球は前に飛び後に飛び局面|忽然《こつぜん》変化して観者をしてその要を得ざらしむることあり。球戯《ベースボール》を観る者は球を観るべし[#「を観る者は球を観るべし」に白丸傍点]。
○ベースボールの防者[#「ベースボールの防者」に白ゴマ傍点] 防禦の地にある者すなわち遊技場中に立つ者の役目を説明すべし。攫者《キャッチャー》は常に打者《ストライカー》の後に立ちて投者《ピッチャー》の投げたる球を受け止めるを務めとす。その最も力を尽《つく》す処は打者が第三撃にして撃ち得ざりし時その直球《ジレクトボール》を攫《つか》むと、走者の第二|基《ベース》に向って走る時|球《ボール》を第二|基人《ベースマン》に投ずると、走者《ラナー》の第三基に向って走る時球を第三基人に投ずると、走者の本基《ホームベース》に向って来る時本基に出てこれを喰《く》いとめると等なりとす。投者《ピッチャー》は打者に向って球を投ずるを常務と為《な》す。その正投《ピッチ》の方、外曲《アウトカーブ》、内曲《インカーブ》、墜落《ドロップ》等種々ありけだし打者の眼を欺《あざむ》き悪球を打たしめんとするにあり。この外投者は常に走者に注目し走者|基《ベース》を離るること遠き時はその基に向って球を投ずる事等あり。投者攫者二人は場中|最枢要《さいすうよう》の地を占《し》むる者にして最も熟練を要する役目とす。短遮《ショルトストップ》は投者と第三基の中ほどにあり、打者の打ちたる球を遮《さえぎ》り止め直ちに第一基に向って投ずるを務《つとめ》とす。この位置は打者の球の多く通過する道筋なるをもって特にこの役を置く者にして短遮の任また重し。第一基は走者を除外《アウト》ならしむるにもっとも適せる地なり。短遮等より投げたる球を攫み得て第一基を踏《ふ》むこと(もしくは身体《からだ》の一部を触《ふ》るること)走者より早くば走者は除外となるなり。けだし走者は本基より第一基に向って走る場合においては単に進むべくしてあえて退くべからざる位置にあるをもって球のその身に触るるを待たずして除外となることかくのごとき者あり。第二基人第三基人の役目は攫者等より投げたる球を攫み走者の身に触れしめんとする者にしてこの間に夾撃《きょうげき》等面白き現象を生ずる事あり。場右《ライトフィルダー》、場中《セントラルフィルダー》、場左《レフトフィルダー》のごとき皆打者の打ちたる飛球《フライボール》を攫み(この時打者は除外となる)またはその球を遮り止めて第一基等に向いこれを投ぐるを役目とす。しかれども球戯《きゅうぎ》は死物にあらず防者にありてはただ敵を除外ならしむるを唯一の目的とするをもってこれがためには各人皆臨機応変の処置を取るを肝要《かんよう》とす。防者は皆打者の球は常に自己の前に落ち来《きた》る者と覚悟《かくご》せざるべからず。基人《ベースマン》は常に自己に向って球を投げらるる者と覚悟せざるべからず。
○ベースボールの攻者[#「ベースボールの攻者」に白ゴマ傍点] 攻者は打者《ストライカー》と走者《ラナー》の二種あるのみ。打者はなるべく強き球を打つを目的とすべし。球強ければ防者の前を通過するとも遮止《しゃし》せらるることなし。球の高く揚《あが》るは外観美なれども攫まれやすし。走者は身軽にいでたち、敵の手の下をくぐりて基《ベース》に達すること必要なり。危険なる場合には基に達する二間ばかり前より身を倒《たお》して辷《すべ》りこむこともあるべし。この他特別なる場合における規定は一々これを列挙せざるべし。けだし一々これを列挙したりともいたずらに混雑を加うるのみなればなり。
○ベースボールの特色[#「ベースボールの特色」に白ゴマ傍点] 競漕《きょうそう》競馬競走のごときはその方法甚だ簡単にして勝敗は遅速《ちそく》の二に過ぎず。故に傍観者《ぼうかんしゃ》には興|少《すくな》し。球戯はその方法複雑にして変化多きをもって傍観者にも面白く感ぜらる[#「球戯はその方法複雑にして変化多きをもって傍観者にも面白く感ぜらる」に傍点]。かつ所作の活溌にして生気あるはこの遊技の特色なり[#「かつ所作の活溌にして生気あるはこの遊技の特色なり」に傍点]、観者をして覚えず喝采せしむる事多し[#「観者をして覚えず喝采せしむる事多し」に傍点]。但しこの遊びは遊技者に取りても傍観者に取りても多少の危険を免《まぬか》れず。傍観者は攫者《キャッチャー》の左右または後方にあるを好《よ》しとす。
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 ベースボールいまだかつて訳語あらず、今ここに掲《かか》げたる訳語はわれの創意に係《かか》る。訳語|妥当《だとう》ならざるは自らこれを知るといえども匆卒《そうそつ》の際|改竄《かいざん》するに由《よし》なし。君子《くんし》幸に正《せい》を賜え。
升《のぼる》  附記
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[#地から2字上げ](七月二十七日)



底本:「ことばの探偵〈ちくま文学の森14〉」筑摩書房
   1988(昭和63)年12月20日第1刷
初出:「日本」日本新聞社
   1896(明治29)年7月19日号−27日号
※図の製作にあたっては、「子規全集 第十一卷 随筆一」講談社(1975(昭和50)年4月18日第1刷)を適宜参照しました。
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(大石尺)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2004年11月4日作成
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