辱《こくじょく》とも思えばなるべし)この技の我邦に伝わりし来歴は詳《つまびら》かにこれを知らねどもあるいはいう元新橋鉄道局技師(平岡※[#「にすい+熙」、第3水準1−87−58]《ひらおかひろし》という人か)米国より帰りてこれを新橋鉄道局の職員間に伝えたるを始《はじめ》とすとかや。(明治十四、五年の頃《ころ》にもやあらん)それよりして元東京大学(予備門)へ伝わりしと聞けどいかがや。また同時に工部大学校、駒場《こまば》農学校へも伝わりたりと覚ゆ。東京大学予備門は後の第一高等中学校にして今の第一高等学校なり。明治十八、九年来の記憶《きおく》に拠《よ》れば予備門または高等中学は時々工部大学、駒場農学と仕合いたることあり。また新橋組と工部と仕合いたることもありしか。その後青山英和学校も仕合《マッチ》に出掛《でか》けたることありしかど年代は忘れたり。されば高等学校がベースボールにおける経歴は今日に至るまで十四、五年を費せりといえども(もっとも生徒は常に交代しつつあるなり)ややその完備せるは二十三、四年以後なりとおぼし。これまでは真の遊び半分という有様なりしがこの時よりやや真面目《まじめ》の技術と
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