わが幼時の美感
正岡子規
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)乳呑子《ちのみご》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)夢|覚《さ》めたり
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1−87−64]
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極めて幼き時の美はただ色にありて形にあらず、まして位置、配合、技術などそのほかの高尚なる複雑なる美は固より解すべくもあらず。その色すらなべての者は感ぜず、アツプ(美麗)と嬉しがらるるは必ず赤き花やかなる色に限りたるが如し。乳呑子《ちのみご》のともし火を見て無邪気なる笑顔をつくりたる、四つ五つの子が隣の伯母さんに見せんとていと嬉しがる木履《ぽっくり》の鼻緒、唐縮緬《とうちりめん》の帯、いづれ赤ならざるはあらず。こころみにおもちや屋の前に立ちて赤のまじらぬ者は何ぞと見よ。白毛黒髪の馬のおもちやにさへ赤き台の車はつけてあるべし。
わが幼き時の美の感じは如何にやと思ひめぐらすに五、六歳以下の事は記憶に残るべき道理なし。われが三つの時、母はわれをつれて十町ばかり隔りたる実家に行きしが、一夜はそこに宿らんとてやや寐入りし頃、ほうほうと呼びて外を通る声身に入《し》みて夢|覚《さ》めたり。(ほうほうとは火事の時に呼ぶ声なり)すは火事よとて起き出でて見るに火の手は未申《ひつじさる》に当りて盛んに燃えのぼれり。我家の方角なれば、気遣《きづかわ》しとてわれを負ひながら急ぎ帰りしが、我が住む横町へ曲らんとする瞬間、思ひがけなくも猛烈なる火は我家を焼きつつありと見るや母は足すくみて一歩も動かず。その時背に負はれたるわれは、風に吹き捲《ま》く※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1−87−64]《ほのお》の偉大なる美に浮かれて、バイバイ(提灯のこと)バイバイと躍《おど》り上りて喜びたり、と母は語りたまひき。あくまで惨酷《ざんこく》なる猛火に対する美感は如何にありけんこの時以後再び感ずる能はず。年長じて後、イギリスの小説(リツトンのゴドルフインにやありけん)を読む。読みてまさに終らんとす、主人公志を世に得ず失望して故郷に帰る、故郷|漸《ようや》く近くして時、夜に入るふと彼方を望みて、丘の上に聳《そび》えし宏壮なる我家の今や猛火に包まれんとするを見る、の一段に到りて、心臓は忽ち鼓動を高め、悲哀は胸に満ち、主人公の末路を憐《あわれ》むと共に、母の昔話を思ひ出ださざるを得ざりき。しかれどもなほ細かに考ふれば、荒村の丘の上に、高き大きなる建物が火を吐きつつある光景は、いくばくかバイバイ的美を想ひ起さしむる者なきに非ず。
我家は全焼して僅《わずか》に門を残したるほどなりければ、さなくとも貧しき小侍《こざむらい》の内には我をして美を感ぜしむる者何一つあらざりき。七、八つの頃には人の詩稿に朱もて直しあるを見て朱の色のうつくしさに堪へず、われも早く年とりてああいふ事をしたしと思ひし事もあり、ある友が水盤《すいばん》といふものの桃色なるを持ちしを見てはそのうつくしさにめでて、彼は善き家に生れたるよと幼心に羨《うらや》みし事もありき。こればかり焼け残りたりといふ内裏雛《だいりびな》一対、紙雛《かみびな》一対、見にくく大きなる婢子様《ほうこさま》一つを赤き毛氈《もうせん》の上に飾りて三日を祝ふ時、五色の色紙を短冊《たんざく》に切り、芋の露を硯《すずり》に磨《す》りて庭先に七夕を祭る時、これらは一年の内にてもつとも楽しく嬉しき遊びなりき。いもうとのすなる餅花《もちばな》とて正月には柳の枝に手毬《てまり》つけて飾るなり、それさへもいと嬉しく自ら針を取りて手毬をかがりし事さへあり。昔より女らしき遊びを好みたるなり。ある年東京へ行く某の叔父に歌がるたを頼みけるに疾《と》く送りこされぬ。そのかるた善き品にて、我家には過ぎたりと人皆のいへりしが、そのかるたいたく我が気に入りて年々の正月を待ち兼ねたり。相手なき時は自ら読み自ら取りて楽みとす。曾根好忠の赤き扇は中にもうつくしく感ぜられて今に得忘れず。十二、三の頃友に画を習ふ者あり、羨《うらや》ましくて母に請ひたれど、画など習はずもありなんとて許されず。その友の来るごとに画をかかせて僅《わずか》に慰めたり。
幼時より客観美に感じやすかりしわれは我家の長物(かるたを除くほか)一として美とすべき者なきを見て心に楽まず、如何にしてわれはかかる貧しき家に生れけんと思ふに、常に他人の身の上の妬《ねた》ましく感ぜられぬ。ひとり造化は富める者に私《わたくし》せず、我家をめぐる百歩ばかりの庭園は雑草雑木四時|芳芬《ほうふん》を吐いて不幸なる貧児を憂鬱《ゆううつ》より救はんとす。花は
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