の煩ひもなく只蔦かつらの力がましく這ひ纒はれるばかりぞ古の俤なるべき。
俳句
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かけはしやあぶない処に山つゝじ
桟や水へとゞかず五月雨
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歌
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むかしたれ雲のゆきゝのあとつけてわたしそめけん木曾のかけはし
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上松《あげまつ》を過ぐれば程もなく寝覚《ねざめ》の里なり。寺に到りて案内を乞へば小僧絶壁のきりきはに立ち遙かの下を指してこゝは浦嶋太郎が竜宮より帰りて後に釣を垂れし跡なり。川のたゞ中に松の生ひたる大岩を寝覚の床岩、其上の祠を浦嶋堂とは申すなり。其傍に押し立てたる岩を屏風岩、畳みあげたるを畳岩といふ。
象岩は其の鼻長く獅子岩は其の口広し、此外こしかけ岩俎板岩釜岩硯岩烏帽子岩抔申なりといと殊勝げにぞしやべりける。誠やこゝは天然の庭園にて松青く水清くいづこの工匠が削り成せる岩石は峨々として高く低く或は凹みて渦をなし或は逼りて滝をなす。いか様仙人の住処とも覚えてたふとし。
此日は朝より道々|覆盆子《くさいちご》桑の実に腹を肥したれば昼餉もせず。やう/\五六里を行きて須原に宿る。名物なればと強ひられて花漬二箱を購ふ。余りのうつくしさにあすの山路に肩の痛さを増さんことを忘れたるもおぞまし。
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寝ぬ夜半をいかにあかさん山里は月出づるほどの空だにもなし
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あくる朝又小雨を侵して須原を立ち出づ。このあたりは木曾川の幅稍々広く草木緑に茂りたる洲など見らる。野尻も過ぎて真昼頃|三留野《みどの》に著く。松屋といふにて午飯をしたゝむ、今は雨も全く晴れて心よき日影山々の若葉に照りそふけしきのうるはしければ雨傘は用なしとて松屋の女房に与ふ。女房いと気の毒がりてもぢ/\せしが戸棚かい探り何やら紙に包みて我前にさし出し折からの御もてなしも候はず。都の人にお恥かしながらとかすかに言ふ声いとらうたし。何かと聞けば栗なり。礼をのべてそこを出て路々打ち喰ふに石よりも堅し。よも人間の種にはあらずと思ふにもし便あらば都の人に送りたし。
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はらわたもひやつく木曾の清水かな
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妻籠《つまご》通り過ぐれば三日の間寸時も離れず馴れむつびし岐蘇《きそ》河に別れ行く。何となく名残惜まれて若し水の色だに見えやせんと木の間/\を覗きつゝ辿れば馬籠《まごめ》峠の麓に来る。馬を尋ぬれども居らず。詮方なければ草鞋はき直して下り来る人に里数を聞きながら上りつめたり。此山を越ゆれば木曾三十里の峡中を出づるとなん聞くにしばしは越し方のみ見かへりてなつかしき心地す。
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白雲や青葉若葉の三十里
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山を下れば驟雨颯然とふりしきりて一重の菅笠に凌ぎかね終に馬籠駅の一旅亭にかけこむ。夜に入れば風雨いよ/\烈しく屋根も破れ床も漂ふが如く覚えて航海の夢しば/\破らる。
朝晏く起き出でたれど雨猶已まず。旅亭の小娘に命じて合羽を買ひ来らしむ。馬籠下れば山間の田野稍々開きて麦の穂已に黄なり。岐岨の峡中は寸地の隙あればこゝに桑を植ゑ一軒の家あれば必ず蚕を飼ふを常とせしかば今こゝに至りては世界を別にするの感あり。
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桑の実の木曾路出づれば穂麦かな
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けふより美濃路に入る。余戸村に宿る。
つぐの日天気は晴れたり。暫くは小山に沿ふて歩めば山つつじ小松のもとに咲きまじりて細き谷川の水さら/\と心よく流る。そゞろにうかれ出たる鶉の足音聞きつけて葎《むぐら》より葎へ逃げ迷ふさまも興あり。道にて、
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撫子や人には見えぬ笠のうら
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御嵩《みたけ》を行き越えて松繩手に出づれば数日の旅の労れ発して歩行もものうげに覚ゆ。肩の荷を卸して枕とししばし木の下にやすらひて松をあるじと頼めば心地たゞうと/\となりて行人征馬の響もかすかに聞ゆる頃一しきりの夕立松をもれて顔を打つにあへなく夢を驚かされて荒物担ぎながら一散にかけ去りける。浮世の旅路是非もなきことなり。
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草枕むすぶまもなきうたゝねのゆめおどろかす野路の夕立
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此夜伏見に足をとゞむ。
朝まだほの暗き頃より舟場に至りて下り舟を待つ。つどひ来る諸国の旅人七八人あり。
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すげ笠の生国名のれほとゝきす
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小舟をしたてゝこゝを出づ。両岸広く開きて河原の上に遊ぶ子供の親を慕ふて船頭を呼びかくるさまなど画の如し。川上には高山巍々として雲を出没すれども川下を見渡せば藍より青き流れ一すぢ白沙に映じて渚の草木涼しげに生ひ茂りけり。如何に見るともこれこそ数日前に別れたる岐蘇川の
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